芸術とは何か、そんなたいそうな問題に答えを出せるとは思っていない。
しかし絵でも書でも評論家がうまい、というものに、時々疑問を持っている。
その考えるきっかけとなったのは、クリフォードアーヴィングという人の「贋作」という書物を読んだときだった。〔ホームページ「関連した読み物」303〕それなり腕のある画家エルミアは自分の作品の片隅にマチスと署名するだけで高価な値段で飛ぶように売れることに気づき、贋作作家になろうと決心するのだ。
TVの何でも鑑定団。もちろん論外な作品も多く出品されるが、中にはよく出来ているが偽者とされ、安い値段がついてしまうものもある。しかし大半の者にとっては本物と同じ印象を与えるのだから同じ値段がついてもいいではないか、との論も成り立つ。
今日は書道教室。
生徒はとうとう4人になってしまった。先生は優秀であると思う。それで何故生徒が減るのか。生徒と先生の覚悟が違うから、と最近考えるようになった。先生は27歳、それで身を立てようと考えている。この暑さのさなか、作品に汗が落ちるのを気にしながら、クーラーのない部屋で日がな一日書き続けている。片や生徒は、私が69歳で一番若い。次の週のために何か書かねばならぬと、時折筆を取り出すのがセキノヤマである。最初の情熱が薄れ、ま、書道を辞めても自分の人生に関係ない、など考えてやめて行く、そんなところか。
そしてもう一つ現れるのがそもそも書道とは何か、という疑問。今日も議論が出たのだけれどNHK龍馬伝。あのタイトルの龍馬伝という文字を書いたのは女性だそうである。何百通りも同じ文字を書いてあの作品にふさわしい文字は何かと考えた。馬の文字の下の4点のうち1点が普通と違って外に飛び出している。それが、いかにも馬が走っている印象を与えるとか。しかしこれは本来の書道から見れば違反なのかも知れぬ。書はまず文字である。文字であるからには読まれなければならない!
従って書というよりも、アートとかカリグラフィーと呼ぶべき筋合いのものかもしれない。そういえば現代書道というものもあった。川という文字は水がいかにも流れている雰囲気を感じさせ、山はいかにもそこにそびえている感じを持たせなければいけない。ある書には「水墨画は究極は書である。」と書いていた。
最近、TVや映画で書道を扱った作品が出たおかげで、高校生等の一部で最近は書道熱が盛んだそうだ。大きな紙の思い切り筆を振るう・・・・パフォーマンスであり、スポーツであり、高度な自己表現であるのかもしれない。しかしそういうクラブを主宰している先生は、徹底的に基本を教えるとか。パフォーマンスをしようにも基本がなければサマにならぬ。それはそれで一つの生き方であろう。
しかし社会では、世の中に書道を普及するとして協会などが作られた。それらが書の普及の手段として、金儲けの手段として昇段制度を作った。何がしかの金を払い、課題に沿った作品を出すと段位や級位が与えられ、続ければ次第に昇段してゆく。私も随分薦められている。「自分ひとりでやっていると目標がないでしょう。」その通りなのである。
しかしどうも気に入らない。昇段制度を徹底させているのが御茶やお花である。お茶をどう飲もうと、花をどう生けようと勝手である。しかしそこにうまい下手を分類し、金を取る、何か抵抗を感じる。このやりかたはさらに課題を与えることにより、自由な発想を失わせてしまうようにも感じる。書でも懸命に立派な文字を書こうと努力するが書いてあること意味に無頓着な者が目立つ。お手本も古人が実は酔っ払って興がのったときに書いたものだ、などと聞くとありがたみがなくなってしまう。
私は、そんな風に考えていまのところこの昇段システムに参加することを拒否している。しかし目標がなくなり、荒野を一人さまようような孤独感を感じる。
これは実は昨年陶芸をやめたときに感じた問題。陶芸教室の先生は「技術は後からついてくる。」とばかり自由な発想でものを作らせてくれた。それはそれでいい。しかし、中々技術未熟では思うようなものが出来ぬ。そのうえ先生は「日常に使う食器がほしいならそれは町で買ったらいい。」とおっしゃった。その通りが、とりあえず技術のない自分はどんなものに情熱を向けたらいいのか。それが解決されぬまま、私は陶芸をやめた。
半年くらいたって書道を始めたが、それはそれでよかったと感じる。新しい分野が開けたような気がした。元の陶芸に戻っても新しい視点でものを見られるように思った。しかしまた同じ問題にぶつかっているように感じる。アマチュアの壁、浮気な私・・・・・。あるいはある人の言う「小金持ちお年寄りに時間つぶしの限界」?
註 ご意見をお待ちしています。
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読者から次のようなメールをいただきました。
私もいくつか「お稽古」をしています。
ピアノを月2回のほかに3つ、ちょっと欲張りにお稽古しています。
ピアノ以外は家での練習をまったくしてませんが、ピアノだけは練習しないと全くだめ。
1日1時間はと思うのですが、これがなかなか。
全然練習できないままレッスン日が来ると憂鬱。
そのほかも上達がなかなかなので、これまた憂鬱。ストレスが溜まります。
じゃ、やめてしまえばと思うのですが、やめたら今までの経済的時間的投資が0になりそうで止められない。
自主練習にすればとも考えますが、お稽古日があるからやるので、なければ絶対やりそうにない。
お稽古をやめないというより、続けている理由が他にあるのですよ。
60歳の定年まで働いていたので隣近所と挨拶以外の付き合いがありません。
また、子どもが大きくなってから現在地の越してきたので、ママ友達もいません。
何もお稽古しなければ、外に出て他人とお付き合いすることが無くなってしまいます。
ピアノ以外のお稽古の場では、ご当地情報がいっぱい聞かれます。それが楽しい。
普通の奥方と話すのも新鮮です。
つまり私にとってお稽古は、社交の場なのです。
家の連れ合いはただひたすらクラブでのテニスのみ。
試合の合間の話題をもれ聞くと、現役時代の会社や仕事のことのよう。
あとは持病のはなし。
お稽古の継続は、付属する人間関係が楽しいかどうかによるものと思うのですが、
どうも女性の方が付き合いがうまいように思います。