901「後100回で1000回」(10月4日〔月〕晴れ)

私の通信に高校同期の友人が「900回、おめでとうございます。あと100回だけは頑張ってくださいネ。」と書いてきてくれた。なんとなくうれしかった。
定年になってから始めた。毎日・・・・実際には休む日も多いのだけれど精神としては書き、そのうち気に入ったものを週に2回、アップロードする。1年はほぼ50週だから、100回、それが要するに9年続いた、ということである。
今読み返すと、アップロードしたものに限っても随分アホ臭いものが目立つ。
まあ、しかし社会の木鐸みたいな顔をしている新聞だって、中国の文化大革命を賞賛し、人々に北朝鮮行きを薦めた。そしてその10年構えには太平洋戦争を礼賛した。まあ、いいではないか、と人にはつらく、自分に甘く・・・・・。
しかし書くということは自分自身に色々な効用をもたらした。

一番大きいのがストレスの発散。
TVで妻を亡くした男のつらさを放送していた。うつになる人などもいて、妻を見ていた医者が今度は夫の人生相談に乗ったりしている。しかしそういう人は書くことが気を紛らし、吹き飛ばしてくれるように思う。最初は妻との楽しかった生活を思い切り書けばいいのだ。するとそれだけで満足しなくなり、これから自分がどうしたらいいか考えるようになるだろう。やがてなくなった妻以外の世界も見えるようになってくるだろう。
私の場合はガールフレンドがいてありがたい限りだが、さびしさを感じたことは何度もあった。そうしたとき書くことは気分転換になった。自分の気持ちをパソコンに打ち込むとなんだか、すっきりした、トイレにでも行ったような気持ちになった。

次にやっぱり自身のいい勉強になるということである。ものを見ただけとアウトラインだけでもいいから、書いてみるでは、頭への残り方がまるっきり違う。・・・似たようなものだが、私は友人にも若い人にも本を読んだらそのアウトラインをまとめてみるといい、と薦める。それでも何冊も読むと、ショーペンハウエルが言ったように「読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。」さらに「多読に費やす勤勉な人間は、次第に自分でものを考える力を失って行く」のかも知れぬが、それでも書けば、少しは「自分で考える時間」を挿入してくれる。これが日常の行為を写し取る日記ともなれば・・・・・・。

それからアップロードし続けるということは社会を広げることにも役に立つ。うれしいことに久しぶりに会う、普段はそれほど親しくもない友人は「通信を読んでいますよ。」と話しかけてくれたりする。見知らぬ人から意見をいただくこともある。そのうちいくつかは読者の感想ということにして通信の後に掲載させてもらっている。後から読み返すと、ああ、こういう見方もある、と納得したりする。
それにしても「あと100回だけは」か。来年の10月頃、1000回、そのときにはもう古希を過ぎて半年になっているなあ。なんとなく60台と70は全然違うように思う。歳をとった、という感じがぐっと増すように思う。自分自身の活動範囲も狭くなるような気がする。老骨に鞭打って?でも頑張りたい。1000回、それが過ぎたら2000回、その頃にはよいよい爺さんの繰言ばかりになっているだろうなあ・・・・・。

友人はまた「その記念すべき号が、国粋的(?)話題でなくってよかった。孫のいない人間は、遺伝子が将来をあきらめてくれているので、何事にも執着しない穏やかな心で過ごしているもので・・・」と書いてきた。
国粋的(?)は、尖閣列島問題などを取り上げたことをいうのかも知れぬ。後半は戦後の社会システムそのものが遺伝子に人生をあきらめろ、と叫んでいるようにも見える。平等といっても今の社会システムは死者に対しては知らぬ、といい続け、家族の絆も無用のものと主張する。言い換えれば、寄るべきところはない、自分ひとりで生きろ、といっている。この話を同期の別の友人にしたところ「孫が居ないと将来をあきらめるというのはエゴじゃないか。」と言った。別の遺伝子はそれでもあきらめてはいけない、といっているのかも知れぬ。私には分からぬ。私は後20年か少ししかないこの世、せいぜい面白おかしく生きてゆきたいと考える俗人である。
最後に日記で取り上げるテーマはひどく私的なものがある。また別の場所に送らねばならぬものもある。未完成のものもある。書きたいことを書いているとそうなる。そうした中からどういうテーマのものを取り上げてアップロードするか。これもまた別の問題。そういったことを考えてアップロードするときに悩むのも通信の効用なのかも知れぬ。

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