917「我が師は弘法大師空海」(11月25日(木)晴れ)

弘法大師空海は、774年香川県生まれ。比叡山で修業した後、若くして遣唐使の留学僧として唐に渡った。長安で密教を学び、唐の最新文化を日本にもたらした。810年に薬子の乱が起こった折、嵯峨天皇側に撞いた。乱の後、高野山の下賜をうけ、真言密教を確立した。彼の「風信帖」を練習し始めたきっかけは、古文書研究会で古文書を読むうち「読めるものを書けないわけがないだろう。」と少々うぬぼれて考え始めたからである。苦労して少し書いてみたが先生から「もう少し基礎から行書をやりなさい。」といわれた。そこでそれにあったものということで探しこの書を見つけた。見つけた、というよりかなり字を書くらしい書道具屋の親父が薦めたのである。
それほど長いものではないが、先生は「まず一枚の半紙に六字づつ書いてみなさい。」と練習を始めた。先生はそれと1週に1度ある稽古で3枚づつ、つまり18字のお手本を書いてくれる。それを臨書してなおしてもらう、そんなことを1ヶ月くらい繰り返して、最初の書はようやく終わった。

風信雲書、自天翔臨/披之閲之、如掲雲霧 兼/恵止観妙門頂戴 供養/不知攸?、己冷 伏惟/法体如何・・・・・・。
書きながら、漢文の能力不足から意味が判然としない。
雑誌「サライ」の12月号を見せてくれたのは高校同期の友人A君である。「付録に「戦国武将の名筆カレンダー」がついている。なんとなく気に入って飾りたくなった。」
「書」の特集である。中を開いてみると私の少し練習した王義之の「蘭亭序」と今練習している空海の「風信帖」が、解説・薀蓄と共に掲載されているではないか。早速買ってきた。
「風信帖」は訳文が出ていた。
「お手紙を拝見し、あなたの近況が雲霧が晴れたように分かりました。「摩訶止観」の経典を頂戴し感謝に耐えません。お体はいかがですか。私は相変わらず。お言葉に従って叡山に参りたいのですが、事情があってかないません。お会いして仏法の大事を語りたいのですが下山していらっしゃいませんか。切に願っております。」
「風信雲書、天より翔臨す」とは非常に凝った書き出しは、直訳すればこうなる。
「風に乗って雲に乗って、天からあなたの手紙が舞い込んできました。」

手紙の相手は比叡山の伝教大使最澄。彼は766年近江生まれ。空海より少しばかり年上。やはり比叡山で修業した後、渡唐し、密教を学んだ。彼は帰国後比叡山にもどり、天台密教を確立する。
二人の間に確執と交流が色々あったことは間違いあるまい。この書は素晴らしい書き出しではあるが、考えようによっては中々きつい書である。「事情があってゆけない。こっちに来い」というのである。定かではないが、二人の対面は、結局、実現しなかった、と記憶する。

奈良時代に大陸から仏教がわたってきたが、聖武天皇は日本を仏教国家にしようとし、各地に写経所を設けて経典の書き写しさせた。其のとき、一番のお手本になったのが王義之の書。大陸でも最も人気が高かった。
空海の書法は、解説者古谷稔によれば「王義之の手法を汲みながら独自の手法を確立」とある。この空海に嵯峨天皇、橘逸勢を加えて、後世、人は平安期を代表する「三筆」と讃えた。
ウイキペデイアによれば書風は「王義之の書法に則した謹厳なもので、それは「風」や「恵」その他が「蘭亭序」と酷似していることでも立証できる。」ただ「蘭亭序」をちょこっと臨書しただけの私には、どこが王義之の手法なのか分からぬ。中々達筆には見える。

「風信帖」そのものについては、もう一度ウイキペデイアによれば
「「灌頂歴名」と並び称せられる空海の書の最高傑作であり、「風信帖」、「惣披帖」、「惣恵帖」の3通を1巻にまとめたもので、その1通目の書き出しの句に因んでこの名がある。大きさは、28.8cm×157.9cm。東寺蔵。
もとは5通あったが、1通は盗まれ、1通は関白豊臣秀次関白の所望により、天正20年(1592年)4月9日に献上したことが巻末の奥書に記されている」
「臨書の楽しみを、書を通じて昔の著名人の真髄に直接触れることが出来る」と有名な書家が言っていたように記憶する。先生に「小さな文字は案外難しい。筆を立てて其の弾力を利用して書くようにしてみたらいい。」といわれ、今日は半紙2枚を横にして書き、空海気分で得意になっている。

後記 先生は「今度は、空海が書いたものと同じように書きなさい。」文字の大きさ、墨の濃淡、カスレ具合等皆真似ろというのである。苦しんでいる。

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