92「漱石になれぬ私」(7月15日 晴れのち曇り)

「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」

明治30年12月、夏目漱石31歳。前年の正月、まだ漱石の年始客が来る前に、同僚の客や書生達に鏡子夫人苦心の正月料理を食べられてしまい、新年そうそう喧嘩になった。それに懲りて、熊本で2度目の正月を迎えるに当たり、同僚の山川信次郎と金峰山系の二つの峠を経て、那古井温泉にでかけた。約15キロほどの道ということで、今では観光コースになっている。

紀行文というのは考えれば考えるほど難しい。凡人は、山を歩くときに漱石みたいに考えたりしない。そんなことをしたら躓いて足をくじくのがおちだ。仕方がないから、たまたま咲いていた草花に薀蓄を傾けたり、後から調べた山や川のいわれなどを書いて紙面を埋める。観光ガイドブックだ!漱石先生みたいに高尚に書きたいものだ。

久しぶりに高尾山に二度続けて登った。最初はびわ滝コースから4号路を経て裏高尾にある蛇滝口におりた。同じコースではつまらぬと、今日は稲荷山コースに挑戦する。

ケーブルの清滝駅左側に、稲荷山登り口の小さな橋がある。もう大分勢いのなくなったアジサイや山百合が目立つ。細道を少し登るとお稲荷さんを安置した祠のある広場に出る。ここが稲荷山コースの名の由来するところである。

このコースは高尾山の主尾根とはべつの尾根から山頂に至るもので、この両峰にはさまれてあのびわ滝コースがある。尾根を伝って登るコースだが、いくつもの尾根を越えるためアップダウンが激しくなかなかきついコースである。歩き始めて30分以上、あずまやのある展望台につくとほっとする。男が一人気持ちよさそうに寝ている。眼下に甲州街道や関東平野が一望できる場所である。

その後もしつこくアップダウンを繰り返すが、特に目につくものはない。最後に百数十段の階段を登り山頂に至る。犬と一緒に登っている女性がいる。一体どこから来たのだろう。このコースはどちらかというと下りがおすすめなのかもしれない。

頂上で握り飯を食いながら考えた。漱石は二男五女をもうけたくせに鏡子夫人と
の仲はあまりうまくゆかなかったらしい。面白くないから山道を歩きながら、冒頭みたいな高尚に考えたのか?私はどう考えたらいい?

薬王院のある本道はなるほど天狗の立像は拝めるかも知れぬが、何度も来ているからもうわかっている。わからないところをゆくところが旅の楽しみだ。

高尾国定公園と大阪明治の森箕面国定公園を東海自然歩道が結んでいる。全長1375キロ、名勝、古戦場、旧街道、国定公園などをつないでいて歴史をしのばせるものが多いが、全コースを歩くと40日から50日ほどかかる。

ここから相模湖に抜ける山道も東海自然歩道の一部である。3時間とあるが、私の足ならもう少し短くてすむだろう、とタカをくくる。どうせ下り一方だろう、と考えたが甘かった。結構アップダウンがある。やがて、一丁平。ここは桜の名所だそうだ。日当たりもよくこの辺でのんびりするのも悪くなさそうだが茶店は閉まっている。

誰もいないベンチに座ってまた漱石の心境で考える。しかしどうも私は彼みたいに高級になれない。

学生時代に某大学の女の子と一緒に来たのは高尾山だったか、御岳山だったか。前にも後ろにも人影が見えないのを確かめて、キスをしたけれど、あれから40年、今はどうしていることやら・・・。

どんどん進むとやがて小仏城山。ここを迂回してさらに進むとやがて相模湖が一望に見える広場に出る。ここの茶屋もしまっている。おじさんが一人絵筆を動かしていた。

人里に出るとかえって急斜面。なかなか降りるのに苦労する。ひよどりごえの坂落としというのはこんな感じじゃないか、と思う。山百合の里として売り出そうとしているらしく、ところどころに街角の娼婦みたいにこってりとしたにおいをはなって咲いている。

甲州街道をさらに突っ切ってゆくと相模川にかかる弁天橋。桂川渓谷の残る唯一の場所。相模川は山中湖から流れ出て大きな川となって相模湾に注ぐ。途中で三度も名を変える。山梨県では桂川、神奈川県に入ると相模川、相模湾の河口で馬入川。

少しゆくと、いよいよゴールの相模湖。1941年着工、47年完成。ダム湖の相模湖の総貯水量は6300万トン。戦後一貫して、京浜工業地帯の貴重な水源・電源として、また東京圏のスポーツ・レクリエーションの場として役割を担ってきた。今は水量が少なく、ダム入口にはゴミがたくさんつかえている。

ここまで書いて読み直す。ああ、やっぱり観光ガイドブックになってしまったなあ。

そこで三度目の漱石先生の心境。 

小学校時代、我が家の近くにあるK寺というお寺の娘が私の席の横に座っていた。背が高くてお人形さんみたいな美人で、ものすごく習字がうまかった。彼女は結婚してこの相模湖市に住んでいるはずだ。今頃どうしているかなあ。

スケベ親父め、この原稿ボツ!ジュースを飲んで、あわてて列車に飛び乗る。

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