921「私の音痴の研究(3)」(12月10日(金)晴れ)

まったくの音痴だが、仲間と一緒に騒ぎ、歌って得意になりたい気持ちは持っている。特に詩吟をやりだして、演歌も其の延長でできないか、等考えはじめ時々練習する。其の演歌について古本屋で面白そうな本を見つけた。吉田進「パリからの演歌熱愛書簡」。1995年発行というから古いが、古いものしか知らぬ私にはかえってあいそう。
著者の巻末の略歴を見ると、1947年東京生まれ。慶応大学経済学部卒業後、音楽を勉強。72年に渡仏、パリ高等音楽院で学んだ後、オリヴィエ・メシアン氏に師事、パリ在住などとある。
週刊誌に連載したものをまとめたらしい。知らぬ歌の解説など聴いても分からぬから、ナナメ読みしたところも多いが要点をまとめておく。演歌の薀蓄には十分に役立ちそう。

「明治維新の自由民権運動の中で、演説会が厳しく取り締まられると、それなら歌で政治思想を広めようと始めたのが演歌、すなわち「演説の歌」であった。街頭で伴奏なしに歌われ。歌詞を刷った本が売られた。歌うというより、太い声で怒鳴るのに近かったらしい。(68p)」
「次第に政治性を失い、叙情的になり、明治末からヴァイオリン伴奏に用いるプロが現れ、大正時代の後期には艶歌とも当てはめられるようになる。今日のギターのながしはその後継者といえる。エンの字はほかにも怨、援、縁、円、炎・・・・など書かれることもある。(68p)」

「(演歌のもつ)いろいろな要素をあわせて、ぎりぎりまで煎じ詰め、演歌の本質を取り出してみると、演歌とは、日本語の様々な音楽的要素(響き、抑揚、アクセント、リズムなど)を誇張して表現するドラマチックな音楽である、ということがわかってくる。(69p)」
「「歌舞伎の見方」(石田良一著)には、およそ人の声の出し方には二通りある。線路で鶴嘴を振り上げる作業員の掛け声のように、労働のリズムに合わせた声の出し方は、言葉を伴い、娯楽として歌われると、民謡になる。この場合、歌詞はもちろん意味を含んでいるが、声の出し方と歌の文句とは関連が無く、声は耳に官能的な快感を与える。単なるリズミカルな音として響く。こういう声の出し方を著者は「唄」と呼んでいる。一方ラジオドラマや落語などでは、声の出し方が言葉の意味内容に従って、様々に変化する。声に表情がある。こちらの声の出し方が「話」で知的な理解を促す。歌舞伎劇の白(せりふ)は「リズムに乗って語られる」ことにより、「唄」と「話」を結び合わせて、出来上がっている。」
更に石田は「唄」が芸術化されたものが「歌謡曲」であり、「歌曲」であるといっているが、僕は歌謡曲を考える場合、更に官能的な快感を与える音を、リズミカルな声の出し方だけでなく、声そのものの魅力、またメロデイー、ハーモニーなど、要するに歌を構成する、色々な音楽的要素にまで敷衍したい(71p)」

歌を演じさせるために、歌手も作詞家も作曲か家もいろいろな工夫をする。「津軽海峡冬景色」は三連符を多用し、若い世代に感覚に会う分割ビートである。石川さゆりは、鼻声がかった発声法が浪花節の語りをおもいおこさせる。森進一はやわらかい、裏声に近い音色を多用すると同時に、語頭にアクセントをつけて歌っている。八代亜紀はハスキー・ヴォイスであることも見逃せぬが、同時に裏声や地声と並んで用いられる日本音楽の特徴である鼻声がすばらしい等々。またさだまさしや沢田研二のものも演歌的要素が濃い。
著者は最後に読者に、春日ハチローの「分かれの一本杉」「お富さん」のいづれが演歌か、問いかけている。荻窪の町を歩いているとカラオケボックスの宣伝文句。「歌を歌うことは3分間のドラマの主人公を演じることです。」まさにその考えか。

更に以下のような指摘があった。
@ 音楽評論家岡部三郎によれば「日本人は、一般に高い音が好きである。それは、長唄とか清元とか端唄、小唄などの江戸町人の多くが、女のお師匠さんの美声や花柳の巷の艶美によって広められ、男もまた粋がった艶っぽさを出そうとした習慣によるところが多いのだと思う。・・・・・(87p)」 老人も歌えるはずなのだが、共感を呼ばぬ。それは高温が出ぬから聴いていて綺麗と感じられぬということなのか。
A 日本の音楽には三拍子の曲が極端に少ない。どうも日本人の好むリズムは2拍子のようだ。これは手拍子に似ている。@2@2@2@2・・・・。村田英雄の「人生劇場」は3拍子である。3拍子は@23@23@23・・・・しかし、どう聴いても3拍子に聞こえない。どうも僕らは3拍子の歌を2拍子とし手受け入れているのではないか。

追記 自分の歌を録音して聞いてみる。高い音を自分では出していると思っているのに、野太い怒鳴り声に聞こえる。多分僕は御詠歌でも歌ったらさまになる?学生の頃、社交ダンスに行ったが、ブルースとワルツの区別がつかずに困った。あげくみんなに「ダンスじゃなくてラジオ体操をしているみたいだ。」といわれた。多分僕にはみんな2拍子に聞こえるのかもしれない。


(参考)
「私の音痴の研究(2)」(12月1日「(水)晴れ」)

「(903)私の音痴の研究」で疑問に感じた邦楽と西洋音楽のドレミの関係について、その後、先生とレッスンの応援に来た先輩等が具体的に教えてくれた。
@三とミが対応しており、周波数も一致している。ただしこの場合の三は八本である。是が七、六、五と下がるに従って半音下がる。逆の場合は上がる。
A電話で「もしもし」と普通に言う声があなたのミである。先輩に寄れば「あなたの場合、三本である。従ってあなたが考えているミは2音半下のミ、下のシである。」
B男性と女性は標準的には1オクターブ異なる。従って女性が8本のとき、男性は3本で歌うようにするとあう。
C詩吟は三で終わる箇所が7箇所もある。これは自分の普通の音であるから、ここに常にもどることを心がけるといい。

昨日詩吟教室が再び行なわれた。
日曜日の発表会で少し気が抜けたのか、少し先生の教え方に力が入っていないように感じた。
新年会が1月14日にある。みな2曲くらい歌わされるらしい。
其の準備ということで、「川中島」(「不識庵機山を撃つの図に題す」が正式な題名だが、長すぎるから俗称で呼ぶことにする)ばかりを練習した。
女性二人はそれぞれに上手であったが、強い声が出ていない、といわれていた。Aさんは「纏まっている。」といわれた。B「さんは割りにほめられた。Bさんは教室では目立たぬが、発表会ではなかなかよい声をだしていた。其のことを別の女性友達に聞いたところ「弱くても正確に音程が取れているから美しく聞こえるのではないか。」
しかし私は最初の二回は先生があわせ、三回目は終えると「分かりました。」といい、Bさんに移ってしまった。「これはひどい、どうするか、後でこの生徒の対策を考えねばならぬ。」とでも思われたか。我が家に戻って録音したものを聞き比べてみる。自分自身でもいやになるほど下手糞だ。「私は永久にカラオケ、詩吟などだめなのではないか。」と感じ、その夜は練習する気もなくなり寝てしまった。

我が家のピアノにあわせて、ドレミファソラシドと音を出すことを試みている。
少しやっているカラオケの音は大体、下のソ位から2オクターブ上のソ位であろうか。それをピアノでポロン、ポロンと鳴らし、それらしき声を出してみるのである。
これを詩吟の音階に応用する。ラ、シ、ド、ミ、ファ、ラ、シ、ド、是が乙、一、ニ、三、三'、五、六、七に対応する。詩吟は、ほぼこの範囲の音しか出さぬから
@詩吟は、カラオケに比べずっと音域が狭く、音の数も少なく単純。
Aレとソがなく、したがって二と三の間が2音、三'と五の間が2音とそれぞれ大きく開いている。是が詩吟独特の音感を出すのであろうか。
Bカラオケに使う自分の持つドレミをそのまま詩吟にあわせると、詩吟では八以上はほとんど使わぬから余り高音は出さなくてよいように感じる。また腹から音を出すように心がけるようにすると、高音が出ないのかもしれない。
気を取り直して再チャレンジ。ピアノで出した音を思い出しながら吟じてみる。それを録音して聞いてみる。すると自分は
@高音部を高くしようとしすぎる。ドがときに上のミくらいまで上がったり、時には声ばかり大きくなる
A低音部にはっきりした区別が出来ていない、たとえば出だし。詩吟は歌謡曲のように奇をてらったような八、八、八とか乙、乙、乙などという出だしは無い。人間が声を出そうとすると自然の声が三であるから其の前後で工夫する。結果二、三および三'、五のいづれかで上下させることが多い。たとえば今日の「川中島」は二、三と上がる。発表会で歌った「海南行」「平常心」は五、三'と下がって出だす。

この辺を区別してやってみると少しうまくなったような気がした。特に出だしのメリハリに注意した。何しろ二音階上下させるのだから・・・・・。同時に先生が私が歌いだすと「三本じゃ低いわよ、四本か、五本よ。」と言い出したのは、三あたりはそれなりの出だしだが、高音部で無闇に上げるから錯覚されたのではないか、と思った。
これで先生の言う4本、5本にする場合、低音まで含めて、全体を半音ないし1音あげなければならぬ。さらに@メロデイにあわせる。Aこぶしをうまくつける。B歌の感情を表現さする等々。・・・・Bさんは「私は論理などそうでもいい、先生の歌と同じように歌うだけです。」しかし音感の無い私は理論で行くより仕方が無い。

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