古文書研究会で、野披本「奥の細道」を取り上げたところ、其の所縁の場所を見よう、ということになった。本を表したこともあり、一番詳しいA氏がまとめ役になった。
男4人。物好きといえば物好きかも知れぬが・・・・。
地下鉄門前仲町北に少し行くと首都高速道路、越えるとまもなく右手に深川えんま堂、正確には真言宗豊前派の法乗院というお寺。
すぐに「採荼庵」(さいとあん)。芭蕉の門人で蕉門十哲にも数えられる杉山杉風の別荘。芭蕉はここから「奥の細道」の旅に出発したとか。平成3年に芭蕉像が作られ、周辺が整備された。ただしこの建屋の後ろに回ってみると何もない。
思い出す「三里に灸すゆるより、松島の月先心もとなし、住る方は人に譲りて、杉風が別墅に移るに「草の戸も住替る代ぞ雛の家」面八句を書て・・・・」
仙台堀川を超え、清澄庭園を迂回し、清洲橋通り。清澄庭園は三菱財閥が所有していた回遊式築山庭園、関東大震災のときに避難場所になった。今は東京都の所有、今日はパス。
「深川あたりは江戸時代の街並み、名所等は関東大震災と太平洋戦争であとかたもなくなってしまった。」とA氏。
臨川寺という臨済宗のお寺がある。「玄武仏碑」をはじめ、「梅花仏碑」、「墨直しの碑」、ごちゃごちゃ書いた碑文は「臨川寺芭蕉由緒の碑文」。芭蕉像があるそうだがみられなかった。
萬年橋は隅田川から小名木川が分岐するところ。風がびゅうびゅう吹き帽子を飛ばされそうだ。
芭蕉稲荷。赤いのぼりが何本も立っている。大正6年の大津波の後、芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見されたところから、最初に芭蕉庵のあったところと考えられている。「芭蕉庵は三つあった。」とA氏。「古池やかわず飛び込む水の音」の句碑。古池の「ふ」に婦を使うなど変体仮名が面白い。者せ越(ばせお=ばしょう)とある。
隅田川川沿いに芭蕉庵史跡展望庭園。階段を上がると小さな空間に隅田川を見下ろす芭蕉の像と芭蕉にまつわる話を浮世絵混じりで描いた説明書きがずらりと並んでいる。高等学校同期の集まりで「いちに歩く会」というのがあり、それで向かいの川沿いを散策したことがある。そのときに一度来て見たいと思ったところ。ここから見える隅田川にかかる端は清洲橋であろうか。
少し戻ったところに「旧新大橋の碑」がある。芭蕉の頃、両国の通称大橋に対して「新大橋」が作られた。工事中に読んだ歌に「初雪やかけかかりたる橋の上」工事後に「ありがたやいただいて踏む橋の上」なる句を読んだという。
すぐ近くに「芭蕉記念館」昭和56年に完成したのだそうだ。芭蕉稲荷の蛙もここに移して保存しているとか。館内には「奥の細道」原本写し、芭蕉書簡、短冊等所縁の品が多く展示されている。庭園内築山には句碑が二つ
「ふる池や蛙飛びこむ水の音」(貞享三年吟)
「川上とこの川下の月の友」(元禄六年吟)
最後に要津寺、やはり臨済宗の寺、ここにも芭蕉翁所縁の像と「古池や・・・・」の句碑。
ウイキペデイアに要津寺の説明「雪中庵とは芭蕉三哲の1人である服部嵐雪(1654-1707)の庵号です。三世雪中庵を継いだ大島蓼太は、深川芭蕉庵に近い当寺の門前に芭蕉庵を再興しました。これにより当寺は雪中庵ゆかりの地となり、天明年間の俳諧中興期には拠点となりました。」句碑は芭蕉記念館の基となったとか。
実を言うと、長い間に私はずいぶん芭蕉所縁の地を訪ねた。山寺や関口芭蕉庵も訪ねたことがある。A氏の用意した年表とウイキペデイアを一緒にして年表を作る。
1644年 三重県伊賀に生まれる。
1672頃 一旦江戸に出るも1676に帰郷。
1677年ころ 神田川改修工事に従事。関口芭蕉庵はこの関係。
1680年 日本橋から深川に退隠、佛頂和尚に参禅。
1686年 <古池や蛙飛び込む水の音>の句を読む。相前後して「野ざらし紀行」「笈の小文」で東海道を上る。
1689年 「奥の細道」の旅に出る。
1691年 大津や京都にも滞在した後、江戸にもどる。
1693年 新大橋完成
1694年 大阪で客死、51歳
5時前に終わり、森下町周辺で空いている居酒屋を探しだし、飲み会。大トックリといっても1合半くらいしかないらしい、それで眠くなってしまう私は効率的か、情けないか?
(後期)その後、このコースをガールフレンドのBさんと歩いた。うららかな気持ちのよい日であったから、新大橋を渡って日本橋に出て昼飯を取った。そんなコースも面白いかも知れぬ。今日(5月8日)、また古文書研究会があった。奥の細道を続けて読んでいる。今芭蕉は日光東照宮あたり。
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