963「武田泰淳「司馬遷」を再読する」(4月22日(金)晴れ)

学生時代に「東洋史」というゼミに参加した。技術系の私がそんなものをと不思議だが、確か一般教養として何か受けることが義務付けられていたのだ。高校時代に本でトルコの歴史に少し興味を持ったので、そんなことでもやるのかと思ったら先生は古代中国史専門。其の先生が進めるので武田泰淳の「司馬遷」を買ってきた。読んだが良く理解できなかった。それはそうだ。「史記」を読んでいないのだから・・・・・。ただ「司馬遷は生き恥さらした男である。」との出だしだけが記憶に残った。最近古本屋で武田泰淳全集が叩き売られていて、其の中に司馬遷があり、再読してみる気になった。あの頃とたいした違いはないが、一応史記は通読したし、私が本を読むと必ず書くようにしている読後感みたいなコメントも書いた。最近目が悪くなったのか、少し読むと疲れる。毎日10-15ページづつ時間をかけて読んだ。

書の出だしは続いて「士人として普通なら生きながらえるはずのない場合にこの男は生き残った。」彼は宮刑(腐刑)という、あけすけに言えばオチンチンをちょん切る、刑を受けたのである。苦しみ、気を失うが、3日たってオシッコが出れば手術は成功、と判断されるとも聞いた。もっとも時代が進むと、自らにこの刑を課し、宦官として宮廷に仕えるものも出たとか。

司馬遷の家は代々記録係であり、父は前漢の太子礼となった司馬談。職務・任務として清時代まで使用された太初暦の制定を行なうなどしている。その彼が腐刑を受けることになったのは、匈奴との戦いで敗北し、投降した友人の李陵をただ一人かばったためである。李陵については中島敦の小説に「李陵」があるから参考に成る。司馬遷は死刑を言い渡されたが、当時死刑を逃れる方法として多額の罰金を払うか、宮刑をうけて宦官になるかであった。裕福でなかった彼は後者を択んだのである。

第二編「史記の世界的構想」のなかに次のような文章がある。

「世界の歴史は政治の歴史である。政治だけが世界をかたちづくる。政治を担うものが世界をになう。「史記」の意味する政治とは「動かすもの」のことである。歴史の動力となるもの、世界の動力となるもの、それが政治的人間である。」「それ故、世界の歴史を書き、歴史全体を考えようとするものは、まず「人間」を極めなければならない。文学史でもなく、文化史でもなく、倫理の歴史でもなく、戦争の歴史でもない。「人間」の歴史が司馬遷の書こうとするものである。」これこそが史記の考え方であり、同時に武田泰淳の歴史に対する考え方に見える。そしてこの考え方に基づき、司馬遷は個人を書こうと勤めた。そこから歴史が見えてくるだろう。

初期の頃、皇帝は真善美の極地であった。そしてそれはよからぬ帝王の出現によって終焉を迎える。しかしそのような図式的なものは影を薄め人間的なものに代わってゆく。

本紀は、いづれも皇帝個人の歴史であるが、その一人の人間が世界を覆いつくさんばかりの威力を持って世界の中央に君臨する。しかし時代の進展とともに、内容は豊富になり、世界の中心の意義も何度か動揺して、そのたびに新しい局面を展開して見せ、絶対者の性格はますます人間的になってゆく。「秦始皇本紀」で「武力によって世界を統一した。」としながら、「「始皇帝は楽しまなかった。」この偉大な絶対者は楽しめなかった。不安であった。おびやかされ、いらだっていた。」と指摘している。「項羽本紀」「高祖本紀」について、著者は世界の中心が二つの時代、として記述している。これに続く「呂后」「孝文」「孝景」「孝武」4章のうち、著者は「呂后本紀」に注目している。漢王朝にとって、極めて問題のある人物をよく「本紀」に取りあげた、と感心する。高祖亡き後主導権を握った呂后は世にも恐ろしき女、偉大なる殺人者である。ことに高祖の寵愛を争った戚夫人の両手両足を切り、厠に押し込め、「人豚」と呼ぶあたりはものすごい。

結論が現代の我々から見ると興味深い。この本が出版されたのは、昭和18年である。実際に書かれたのは少し前であることを考えれば、この頃の風潮と彼の世の中に対する考え方を如実に示しているではないか。

「史記的世界は要するに困った世界である。・・・ことに世界の中心を信じられぬ点、現代日本人とまったく対立する。」「司馬遷は史記的世界を作り上げたが、その結果中心が信じられなくなり、人間不信に陥った。日本人を優秀人間として絶対視している我々からすれば、これはとんでもない所業である。」「空間的に世界を考えるという態度は、行動者の態度ではなく、後から視ている傍観者の態度である。既に批判精神であるから「海行かば」の声は生まれない。」

史記やこのような書を読むこともまた、何かしら現代を考える上で役立つ気がする。

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