どこかに書いたかも知れぬが、私は昭和42年に工学系大学院を出た後、ガス会社に就職、見習いを経た後、豊洲工場に配属になった。社会人としてまだ右も左も分からぬ時代・・・・そのくせ10月には結婚していたのだけれど・・・。
今では都市ガスは11000キロカロリー、天然ガスが原料と決まっているけれど、そのころは5000キロカロリー、石炭や石油を原料にして作った製造ガスの時代、豊洲工場はその一番の主力工場であった。当時の豊洲は、新橋に近いとは言いながら、陸の孤島みたいなもので周囲にはほとんど何もなかった。毎朝、新橋から専用のバスで工場に勤務、そこで一日過ごすために、我々の工場、というような仲間意識も強かったように思う。
やがて天然ガス転換が行なわれ、豊洲工場は閉鎖になった。ガスの科学館などできたこともあったが、今は築地市場の移転先として検討されている。其の豊洲工場出身者の集まりが毎年開かれるようになったのはいつからだったか。今日開かれ久しぶりに出席。
130人くらいが出席。しかしここでは「古希を迎えました。」などと威張れぬ。「何だ、洟垂れ小僧!」といわれるのがオチである。それでも皆さんお元気だが、良く見ればこの前まで見かけ、今日は見かけぬ先輩も目立つ・・・・・。まだ働いている人は、ほとんどいないのではないか。それなりに安定した幸せな老後をおくっているようだ。就職した会社が、倒産することもなく定年まで存続し、しか発展し続ける・・・・そんなことが、結構、珍しい世の中、幸せというべきだろう。
女性が珍しく一人だけ来ていた。安全管理室にいたとか、今では結婚され幸せな家庭を築かれているようだ。工場では皆作業服と安全靴をはく。小柄な痩せ型の彼女に「あのころ阿笠さんに靴と帽子が歩いているみたいだ、と言われた。」と言われたが記憶にない。
帰り際にA君に、思い切り肩を叩かれた。彼は職場結婚した。「美人の奥さんは連れてこないのか。」とやり返すと「この次・・・」と聞こえないような声でいる。喉頭がんを手術し、声が出ないと聞いた。
Bさんの思い出話もでた。私と同じくらいの年齢で、後年ポルトガルのガス事業のコンサルで活躍した。しかし昨年酔っ払って電車を乗り過ごし、もう来ないと信じて線路伝いに帰ろうとしたところを轢かれてしまった。
しかし興味深かったのはやはり福島原発の話。
「注水を実は続けていた、という吉田所長は痛快じゃないか。外野ばかりが集まって色々言うから、ああいうことに成るんだ。」くらい言ったら
「いや、お粗末だ!」と昔の上司から言われた。しかし聞いてみると、今回の話ではなくあのプラントを水素爆発させてしまった話。
「誰がなんと言おうと責任者は自分のプラントを守らねばならぬ。上司の指示を守らぬなら、この段階でさっさとベントするべきであった。しかも一つのみならず三つも水素爆発をさせてしまった。圧力計を見ていたら分かるだろう。」
「ああいう話になれば実は原子力の話なんかじゃない。プラントエンジニアリングの世界だ。みな聴きに行くところを間違っている。」
「機械で表された数字を読み取ることばかり教育されていて、プラントを扱う上での根本が教育されていないのではないか。」
そんな意見が目立った。もっともそのときの所長も吉田所長であったのか、どうかはしれないけれど・・・・。
豊洲工場は、昭和35年頃から建設が始まったのだろうか。ドイツ等から導入された技術をもとにプラントを建設し運転を始めた。見よう見まねであったから、何度も爆発事故など起こしたらしい。しかし何度も繰り返すうちに、自然に技術を習得していった。私が配属された頃は、それがほぼ完成した頃であったのだろう。
43年に高圧精製と言うプラントで火災事故が起こった。私の担当ではなかったから、詳しくは知らぬが、ある作業員があのバルブをとめねば事故は終わらぬと、大やけどをしながらプラントをとめた話が後日伝えられた。そのとき、ガスの供給不良まで起こした、と今日始めて知った。ガスの製造工場の場合は停電までは仕方がないが、供給不良は許されぬ。大半のガスは高圧精製で処理してから送られる。それが停止してしまったのだから足りぬ。指令が飛んだ。「とにかくガスを送れ。燃えなくてもいい。」その結果大森工場周辺では大規模な点火不良が起こり、大問題になったとか・・・・。こんな経験があるから先輩たちはノウハウを持っており、コメントできるのであろう。
註 ご意見をお待ちしています。
e-mail address agatha@ivory.plala.or.jp
ホームページ http://www4.plala.or.jp/agatha/