984「松井石根と南京事件の真実」(8月2日(火)曇り)

南京虐殺はどこまでが真実なのか、よく話題になる。そういう時私は固定観念をもって組み立てられた意見を聞きたくない。組織、個人の行った事が本当は何であったか、と疑問を持ち、史料を公平に判断したものを知りたい。この本は一応そのように見えたので購入した。文春新書の最新刊。著者は早坂隆、1973年生まれのルポライターである。

松井石根は、愛知県の「貧乏士族」の出身であったため、陸軍士官学校から軍人の道を歩み、陸軍大学校十八期。日露戦争に従軍する傍ら、中国語をマスターし次第に中国通になって行く。その後清国に派遣され、北京、上海などで勤務。孫文などとも親交を厚くしたがその孫文の手で辛亥革命が成功。松井は中国を愛していた。
孫文は「大亜細亜主義」を標榜し「亜細亜は仁義道徳をもって連合、提携して、欧州からの圧迫に抵抗すべき。」などとしていた。松井は彼と親しかった。しかしワシントン条約で「民族自決」「反覇権主義」が叫ばれる中、日中関係は激しく流動化した。そして昭和2年の南京事件では、日本人居留区もまた攻撃の対象となった。このころ松井は蒋介石に大きな期待を寄せていた。張作霖爆殺事件を通じて蒋介石の力はゆるぎないものとなったが、柳条湖事件を契機として満州事変が勃発。松井は「欧米列強に支配されるアジア」から脱し「アジア人のためのアジア」を実現するためには「日中の提携が第一条件である。」と考えていた。

昭和十年、陸軍大将となったのち予備役として退いた。然し日本と蒋介石中国の対立は深まり、梅津・何応欽協定で蒋介石は華北から退くこととなった。蒋介石はイギリスと組もうと画策する一方、共産党とは排日で歩調をあわせる行動に出るように見られた。日本側は華北に「親日政権」を作ろうとするなどの動きが出た。「支那は過渡的に北、中、南、西と言う如き外郭的4種の地方に区分せられて、いわゆる連省自治、中央統制の形式を取る事がいいだろう。」そのために「一撃を加え、蒋介石政権を排除する必要性がある。」と松井は考えるようになった
「盧溝橋事件」「通州事件」等を通じて、中国と日本の対立は決定的となった。日本軍は軍事行動をとった場合、どこまでやるのかはっきりしないまま15万人の中国兵が終結すると言う上海への出兵が決定した。予備役の松井が「上海派遣軍司令官」となり59歳で出陣することとなった。この年の暮れ上海は陥落した。

南京を攻撃することはきまっていなかった。しかし柳川の率いる一部が当初に決めたラインを超えて進軍を開始した。追認する形で松井も参戦、攻略要領が作成せられ、軍紀を守ることも十分に指示されていた。松井は国際法を十分に考慮していたようであった。降伏勧告文が拒否されたため、南京城への攻撃を開始。戦闘が激しくなる中、中国軍の総大将唐生智は、部下に明確な指令を出さぬまま逃げてしまった。中国軍は大混乱となった。日本軍の入城に前後して同士討ちを起こしたものも多く出た。上海の時もそうであったが、市民の安全地帯が設けられていた。然しここでは中国人兵士がこちらに逃げ込み、便衣服に着替え、一般市民を装い、日本軍への反撃を試みた。そのためその掃討作戦を行わざるを得なかった。結果、日本軍の予想を超える大量の捕虜が発生した。これらの戦いを通じて、日本の一部の軍団に行き過ぎが出たことも事実であった。
松井は交代させられた。松井は自分の掲げた軍紀が必ずしも守られなかったことを恥じた。南京が陥落し、華北が支配されれば戦争は終る、と考えていた。然し事はそのように運ばず、蒋介石は奥地に拠点を移し活動を続けた。また共産軍も各地で活動した。

やがて日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結んだ後太平洋戦争に突入。日本はアジア諸国が欧米列強から解放されるよう模索するが、日本の敗戦とともに全てが灰燼に帰す。

松井は戦犯として指名され、戦勝国による復讐裁判ともとれるこの裁判で東條等、松井を含め、七名が死刑の判決を受けた。「松井が大虐殺を命令した」との検察側の当初の主張は退けられ、部下の残虐行為を防止する措置が十分でなかった、という「不作為の罪」が強調された。七人のうち三人がいわゆる中国通であったという。

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