TV放送で西部 邁がつぎのようなことを言っていた。
「いろいろあるけれども太平洋戦争は、歴史の必然で起こるべくして起こった。そして其の時代の人たちは全体としては懸命に努力して生きた。」
「戦争で負けて極東軍事裁判。しかし日本人の多くはそれを冷ややかに見つめている。自分たちの択んだリーダーが敵国の手で首を絞められようとしているのに・・・・」
なるほどと思う。
再び終戦記念日を迎えた。私たちが今しなければならぬことは反省をし、そこからなにかの教訓を得、将来に生かすことではないか。
書店で「失敗の本質」を見つけて読み始める。
この書は1984年に、防衛大学のメンバーを中心に、大東亜戦争における諸作戦の失敗を、組織としての日本軍の失敗として捕らえなおし、現代の組織一般としての教訓あるいは反面教師として活用することを狙って行なった共同作業である。ただし日本がなぜ大東亜戦争に突入したか、という点は別書に譲り、ここでは鍵となった六つの戦争の戦略や作戦を見直す。
ノモンハン事件:1939年に起こった、外モンゴル軍、ソ連軍との対決。小競り合い程度に考えソ連を侮っていた日本軍だが、大兵力、大火力、大仏量主義のジューコフ元帥率いるソ連軍に
なすすべを知らなかった。
ミッドウエイ作戦:大東亜戦争における海鮮のターニングポイントとなった。日本側空母4、米側3など、当初の戦力に大きな差はなく、寧ろ日本が優勢くらいであった。しかし日本側は索敵計画が杜撰で慎重さに欠けていた。その結果空母をすべて失った。
ガダルカナル作戦:陸戦のターニングポイントとなった。ミッドウエイ海戦後、主導権をとった米国軍は比較的容易で損害を避けうるステップバイステップで上陸作戦を敢行することとし、其の第一に飛行場建設中の同島が択ばれた。日本側は、兵力を小出しにし、不測の事態発生に有効適切な反応が出来ず、大失敗に終わった。
インパール作戦:ビルマ情勢の悪化に伴い、現地の牟田口軍司令官がイニシアチブを取り、アッサムまで占領しようと起こしてしまった戦い。インド侵攻は反対者も多く、しなくてもよかった作戦。作戦決定に当たって、妙に人間関係を重視する情緒主義が覗いた。
レイテ作戦:昭和19年10月、敗色濃厚な日本軍がフィリピンレイテ島上陸を敢行しつつあった米国軍に対して行なった、起死回生の捨て身の作戦。しかし事前の戦いで多くの被害を受けた上、参加部隊が精緻な作戦計画を十分認識しないまま作戦に突入してしまった。
沖縄戦争:現地と大本営の齟齬が問題であった。現地は持久戦に徹するとし、簡単に米国軍の上陸と北・中飛行場の占領を許してしまう。
6つに戦争を日米対比で分析した後、日本軍の戦略は、作戦目的があいまいで多義性を持っていた、戦略志向は短期決戦型であった。戦略策定は科学的合理主義ではなく独特の主観的インクリメンタリズムであった、戦略オプションは狭くかつ統合性にかけていた。資源としての技術体系は一点豪華主義で全体としてのバランスにかけていたなどと指摘している。組織は、合理的であるはずの官僚組織の中に人的ネットワークを基盤とする集団主義を混在させていたこと、システムによる統合よりも属人的統合が支配的であった、学習が既存の枠組みの中での強化であり、かつ固定的であった、さらに業績評価は結果よりもプロセスや動機が重視されたことなどを指摘する。まとめて言えば、日本軍は、自らの戦略と組織を其の環境にマッチさせることに失敗したからだ。その理由を三章で根源にさかのぼって追求している。
陸軍は西南戦争や日清戦争の経験から、火力の優越を知りながら、白兵戦による銃剣突撃主義に傾いていた。小銃や機関銃は旧式を改良しただけで、しかも戦車の重要性に気づかなかった。海軍は、日露戦争の経験から艦隊決戦主義個艦優秀主義を標榜した。双方資源の面でも時代の変化に対応していなかった、と指摘する。
最後にこの日本軍の思想が戦後どのように受け継がれているかを記した下りが面白い。
政治組織については戦略性が依然とし欠如し、逆説的には臨機応変の対応に終始している。日本軍の持っていた組織的特質を、ある程度創造的な形で受け継いでいるのは企業で、財閥解体により、下士官や兵等による沸きあがるような組織が誕生した。ただこの利点も戦略概念のなさ、急激な構造変化対応困難、大きなブレイクスルーなし、意思決定に長い時間などの問題点を有している。日本はどちらかと言うと問題を機能的(体験的)学習に頼っていたが、欧米の演繹的学習を取り入れながら、自己革新を図ってゆく必要がある。
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