996「通信、もうすぐ1000回」(9月9日(金)晴れ)

阿笠通信が1000回を迎えようとしている。前回で994回。
原則として毎日日記を書き、そのうち気に入ったものを毎週2本阿笠通信としてアップロードしている。毎月2本であるから、1年間で約100本、1000回ということは10年が過ぎたということだ。定年直後から始めたから今70歳、当たり前である。
高等学校が同期で関西に住んでいる友人A君が、時々意見、感想文などくれる。その彼がメールで「愈愈1000回だね。同じ高校の仲間とお祝いの会はやらないのか。やるなら知らせてほしい。」と書いてきた。
しかし私はすげなく「そんなに読者はいないよ。会社仲間で意見をくれるものが数人いるが、高校仲間で意見をくれるのは君くらいだよ。」
その返信「そんなことはないだろう。B君などメールを送っているのか。」
B君はなかなか考えることの好きな人である。読書会などを開いている。通信はアップロードするほか、希望する人にはメールで送っている。同期のものにはB君を含め10数人に送っている。しかしコンスタントに意見をくれるのはA君くらいである。

ほかに同じ高校同期ではC君が時々くれる。彼が
「あなたのメールのおかげで、ものを考え、それを文章に書くようになった。感謝している。」とメールを書いてくれたが、正直うれしかった。
B君は何故読書会など開くのだろう。読書会を開き、みんなの意見を聞き、それでどうしようというのだろう。何か社会運動でもしようというのだろうか。分からぬ。
私の通信および日記の目的は、まったく自分のためである。そういう意味なら発表しなくてもかまわないのである。しかし発表することによって自分の意見をまとめられるし、他人の意見や忠告を受けることも出来る。仲間も増えて楽しくなる。
野田内閣が発足した。早速失言が飛び出した。情報や意見をまとめてみる。しかし自分の発言で世の中の動きが変えよう、などと考えているわけでない。どうにもならぬ、とも分かっている。それゆえ、せいぜいごまめの歯軋り程度に過ぎぬ。

しかし自分自身のためには非常に役に立っている、と感じている。
ものを書くことによってこころのもやもやが発散できる。落ち着く。書いているうちに自分の阿呆さ加減、世の中にいろんな見方があること、等いろいろ気づく。会社時代の友人D君はメールをどんどんくれる。世の中のこと、内閣のこと、株のこと・・・・中には私には関係ないでしょう、といいたくなるものまで。しかし考えて見ると、彼も私に意見をぶつけることによって己を発散させているのかも知れぬ。
ときどき「物知りだ。」といわれる。雑学をずいぶん仕入れているという意味でほめられているのかどうかは不明である。
いつかお茶を習ったとき掛け軸に「関」という字が書いてあった。それについて先生は「何かを始めるなど、一つ関を越えてみると、いままで見えなかった新しい世界が見えてくるものです。」といわれた。よい指摘であった、と覚えている。
書くことを通し、関をこえ、新しい世界に興味を持つことを続けているうちに私の世界が広がり、知識が蓄積されたような気がする。今は、一昔前と比べるとずいぶんと物を調べやすい環境になった。一番の功績はインターネットの普及である。昔は研究室ですら図書館通いや難しい本への挑戦、あるいは先人に聞くなど多くの苦労しなければならなかった。しかし今はお茶の間でコーヒーを楽しみながら素人でも出来るのである。

また、人は忘れるという特色を持っている。昔も今も読書が大事といわれる。しかし内容はほっておくと忘れられてしまう。ある人は其の積み重ねが頭の中でレンガのようにかたまり、取り出せなくなってしまう、とも言っていた。しかしそれを書いておくと、後から小さな記憶をたよりに思い出すことが出来る。これは読書に限らず、あらゆる自分の経験に当てはまる。紫陽花の花はどうして色が変わるのか。」と聞かれれば昔書いた紫陽花に関する薀蓄を引っ張り出してくれば思い出せる。
さらに書くことは自分自身を見直すチャンスを与えてくれる。其の反省を積み重ねていってなんとなく今の自分があるような気がする。ただ人生は短い。現役時代にこの習慣をつけておけばもっとよかったろうに、と思うことが時々あるのだが・・・・・。
さて1000回記念、件の友人には「そんなわけで会など成立せぬ。しかし私の娘の亭主が関西勤務になった。ときどき関西に行くチャンスが出るかも知れぬ。機会を見て飲まないか。」と書いておいた。

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