ああ、よかった、と感じると同時に力がぬけたように感じた。
阿佐ヶ谷、河北病院。PSDの結果は、前とほとんど変わらぬ。医者は
「増えている様子はないから、問題ありません。経過を観ましょう。6ヵ月後に来てください。」
目のほうは「眼圧は下がっていますね。問題ありません。視野検査を一応してみましょう。」
一年一回の健康診断で、「PSDの値が少し高くなっている。前立腺癌の可能性が考えられるので専門医に見てもらってください。」「視神経が陥没している。緑内障になる可能性があるから専門医に見てもらってください。」検査だけして、何でも専門医に見てもらってください、とは気楽な商売だ、と思いながらその気に成る。その結果今日のような結果になっている。でもこれで後1年くらいは交通事故に注意していれば健康に生きられそうだ。
ガールフレンドのAさんは耳鳴りの病気になって以来どうも弱気である。
「耳鳴りは治らないのではないのかしら。」「最近は食欲もあまり出ない。脂っこいものは勘弁してね。」「そのうち自分のことも出来なくなるのかしら。そうなったら嫌だわ。」それに対して私が悟ったような慰めを言う。
「人間はいづれ死んでしまう。それなら、その時期が何時といわれようが、それまで面白おかしく生きることを考えようよ。」
私は死後の世界というものを信じていない。蓮の花の咲く極楽があるだの、神様の国があるだのよくもいうものだ。落ちてきてしまうではないか。よみがえりというものも信じていない。何に生まれ変わるか、等など分からぬ。人間に生まれ変わろうが、小魚に生まれ変わろうがたいした変わりがないようにも思う。人はみな子魚に生まれ変わるなどといえば嫌なことと感じるけれども、小魚にしてみれば人間の世界など知らぬ。自分の命を守り食べて行くだけで毎日あくせくしているに過ぎぬ。別にそれを幸せとも不幸とも感じぬのではないか。
死というものも余り恐れる気分がなくなっている。ただ嫌なのは、死ぬときに痛いから、だけではないのか。死後の世界が無であり、何も分からぬ以上、向こうの世界にゆくことが不幸であるとも決め付けられぬ。殉教者は自らの死と交換に何かを成し遂げようとする。世間のものは「なんて馬鹿なことを。命をなぜアンナに粗末にするのだろう。」という。しかし本人にしてみれば、ベストと考えたのであるから、それでよいのだろう。ただこの世にいるのは殉教者ばかりではない。同じ考えを持つものばかりではない。そしてその他の人間も他の教えの殉教者に成ることを含めて様々の権利を持っている。それゆえ他の人間、場合によっては私の権利を侵さないでくれといいたいだけである。
死ねば一切がなくなってしまう。単純に無の世界に帰してしまう。それだけのことだ、と最近思うようになっている。それゆえに苦しむこともまた人生なのではないか、とさえ感じている。「無の世界がよい、この世で苦しむよりよい」と考えている人たちも多いかもしれない。自殺願望者である。私が自殺願望者に出会ったら、多分Aさんに言ったように言うだろう。「死にたければ死ねばいい。しかしこの世で苦しむのもまた一興だよ。」どこかに書いた。なぜ社会は人の死ぬ権利を認めないのだろう。病院のベッドに、苦しまずに死ねる毒薬を置いておいてやらないのだろうか、と思う。若者の自殺者が増えた、といって何故嘆くことがあるのだろう。個人の選択ではないか。
「欲」とは何であろうか。自分の今の環境が悪くて、それをよりよくしたい、という気持ちの表れではないだろうか。路上生活者はせめてアパートに住みたいと願う、500の店を持つ社長は、500しか店のないこと不幸と感じ、1000の店を持ちたいと願う、大臣になったものはまだ不孝だ、と感じ、総理大臣になりたいと願う。そういうものを言う。しかその欲はしばしば達成されれば、それでオシマイになるし、限りなく膨らんだところで死、つまり無の世界が待っている。一たび無の世界に入れば人はその人のものを分けつくし、その人の存在していたことすら忘れてしまう。
それが分かってくるのはやはり少し年をとってきてからではないだろうか。政治家には本当はこの欲を卒業した人がなるべきなのかも知れぬ。ただそのときに活力が無くなり、新しい考えが出なくなっていることも事実なのだが・・・・・。
ただ私は、まだこちらの世界で元気に馬鹿をやってすごしたい。あと1年くらいは大丈夫そう。それが過ぎたらその次の1年、大丈夫を感じたい。それを繰り返して、90.100までずうずうしく生き恥さらしたい、と願う。ヤッホー!カラオケでも歌おうか!
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