天下を汝に          赤木 駿介


今川氏真は、意気地のない男だった。
義元が桶狭間で信長に撃たれた後、防衛一方に回り、8年後には国を失い、流浪の民となった男である。
しかし彼には別の世界があった。連歌や蹴鞠の世界であり、それを通じて公家との親交がおおかった。
彼は、信長への恨みを忘れた訳ではない。
機会があれば彼なりのやり方で復讐しようと考えていたに違いない。
それが自分を神にしようとした信長に怒った近衛前久等の明智光秀をかついだ陰謀に加担することとなった。
しかし信長倒したものの、秀吉が天下を取るに及んで、公家たちの陰謀は潰えた。氏真は、家康の庇護の元での生活に戻った。
しかし戦国の世、多くの武将が天寿を全うすることなく世を去っていった中で、氏真は、妻の萌共々それなりの生活をして生き延びた。
この物語は織田、豊臣、徳川と天下がめまぐるしく変わった時代を背景に、天下取り目指すほどの気概はない、平凡な男が、どう自分なりに生きたかを示したものといえよう。

・信玄と言い、信長と言い、肉親を殺害する度に、自身が大きくなっているのではないか。・・・覇者はいつか天の裁きを受けないわけには行かないだろう。葬られたものの怨念は決して弱くはない。(111p)
・戦という枠の中にいる限り、敵と戦うだけでなく、いつ何時味方に寝首を掻かれるかも知れないのである。・・・・本当に氏真が生をまっとうしていることに感謝しないではいられなかった。・・・氏真には、倒されない何かがあったとも思うのだ。運の強さだけではない、そう信じたい。(144p)
・氏真は、このときになって、自分の体の中にある、公家の血が騒ぐのを知った。(179p)
・(成功者は)協力してくれた人々には、お陰を持って、等と言うが、本心ではない。ほとんどの成功者は、自分一人の力で地位や富や権力を得た、と思うものなのだ。(304p)
・秀次は、関白になった時点で、公家たちとのつきあいにおいて、本格的な教養の必要を痛感した。(332p)
・秀次と、その周辺を整理してしまったことの重大さを、秀吉は気づいていない。(349p)
・人はのぼりつめたとき、必ず理不尽な事を言い出します。自分では気がつかない。(351p)
・(家康・・氏真)おことはわしに対して、決して意地の悪いことはしなかった・・・・(357p)
・戦死であれ、病死であれ、死者を弔う儀式は、壮大かつ厳粛なものでなければならない。・・・氏真にとっては、戦より大事は、今行わなければならない父の葬儀であった。戦ならば、今でなくとも良い。実際は、疲れた領民を、もう一度鼓舞するだけの力のないおのれだった、とも自覚している。(361p)
・今川氏真なる人物が、ついに何であったか、確たるものがなかった、と言うことじゃ。味噌は味噌らしくなければならぬ。(373p)

(本文を元に作った年表)
1519 義元出生
1521 信玄出生
1528 光秀出生
1534 信長出生
1537 秀吉出生、氏真出生
1542 家康出生
1546 武田勝頼出生
1554 萌、氏真に輿入れ、氏真17歳、萌15歳
1560(永禄3) 桶狭間の戦い、義元死(42歳)

1563 (永禄6)松平元康今川氏真と絶交し、家康と改名

1566 (永禄9)今川氏真、富士大宮に楽市令を出す
1567(永禄10)信長「天下布武」の印章を用い始める  信玄に追いつめられ、氏真の妹の嫁いだ武田義信撃たれる
1568(永禄11)三国同盟崩壊      今川家、信玄に駿河を奪われる。氏真小田原へ逃れる。
1571(元亀2)岳父北条氏康死去、氏政信玄と組む動き   氏真流浪の人・・・家康の庇護
1573 信玄死去(53歳)
1574(天正2)信長従三位参議 蘭奢待切り取り
1575(天正3)長篠の合戦
1580(天正5)徳川信康撃たれる 瀬名の方殺される
1582(天正10)勝頼死去(37歳)武田滅ぶ      信長 盆山信仰の強要      光秀家康接待役解任      信長中国出兵      本能寺の変、信長死去(49歳)光秀死去(57歳)
1586(天正14)従一位関白太政大臣豊臣秀吉誕生
1590(天正18)北条氏滅ぶ。(氏真53歳、萌51歳) 家康、駿河、遠江、三河、甲斐、信濃を返上、伊豆、相模、武蔵、上野、上総、     下総を得る。
1595(文禄5)豊臣秀次死去(28歳) 伏見桃山大地震
1598 秀吉死去(61歳)
1600 9月関ヶ原の戦い
1612(慶長17)家康、氏真とのかたらい
1613萌品川で死去(74歳)
1614(慶長19)氏真品川で死去(77歳)
1615 大阪城落城秀頼死去(23歳)
1616 家康死去(74歳)
(新潮社)