東京創元社 IL NOME DELLA PROSA 河島 英昭
時は1322年、北イタリアに勢力をのばしたフランス王の政策により、ローマ教皇は、アヴィニオンに移され、ヨハネス22世になっていた。彼は、ドイツ国王ルードウイッヒ4世と対立すると共に、フランチェスコ修道会の内紛にも干渉しようとしていた。奢侈に走り、意見のことなる者を異端審問裁判に掛け、多くを火あぶりの刑に処すなどして弾圧していた。そのような背景の中で、見習修道士の私は、フランチェスコ修道会ウイリアム修道士に連れられて、北イタリアの山の中にそそり立つその僧院を尋ねた。
早速僧院長アッポーネから、細密画家修道僧アデルモが夜中に塔から落ちて死んだ、近くアヴィニオンの一行が到着するが、それ以前に真相を調べてほしい、との依頼を受ける。しかし文書館への出入りは禁止するとのことだ。二日目になって、豚の生き血をたたえた容器のなかに、古典翻訳専門のヴェナンツイオの死体が発見された。そして修辞学専門の学僧ベンチョは、ヴェナンツイオが盲目の老修道僧ホルヘと笑いが悪いものであるかいなかについて、激しく議論していたこと、文書館長補佐のベレンガーリオが「アフリカの果て」にある書物を捜せば分かる、と言っていたこと、を証言する。
その夜ウイリアムと私は、文書館に忍び込むが、正体不明の人物が先に入っていた。妖術使の記号めいたものの書いてある書類を見つけるが、ウイリアムは眼鏡を盗まれてしまう。
三日目の夜もう一度入った後、戻るときに私はウイリアムと別れ、厨房に迷い込む。そこで何者かに犯されかかっていた村の娘に会い、あやまちを犯す。私はウイリアムに告白するが、その後行方不明になっていたベレンガーリオが、施療院の浴槽の中で死体で発見された。
犯人が発見されず困っているうちに、ポッジェット枢機卿、ベルナール・ギー等アヴィニオンの一行が到着する。指導権を握りたいギーは、独自の調査を行い、厨房係助手のサルヴァトーレと村の娘を捕らえてしまった。そしてその証言等から厨房係のレミージョを異端審問裁判に掛けることにした。
五日目になって、さらに薬草係の学僧セヴェリーノの惨殺死体が発見された。しかし異端審問裁判は滞り無く行われ、ギーは発狂直前のレミージョにドルチーノ派に荷担していたことを認めさせ、三人をアヴィニオンに連れ帰ってしまった。六日目になって、文書館長のマラキーアが、毒物によって倒れ死亡した。私は死者のミサ「デイエス・エレ」を聞きながら幻を見る。それは退廃の極地にいたったキリストあるいは聖者たちを徹底的に茶化したものであった。これをウイリアムに語ったところ、彼はついに問題の書物が「キュプアーヌスの饗宴」であることに思い至るが、僧院長アッポーネはもう事件の捜査はするな、という。
しかし七日目の深夜ついに「アフリカの果て」に立ち入ったウイリアムと私は、アッポーネがホルヘに閉じこめられ、死をまつだけである事を知った。ホルヘは笑いを否定し、理性が宗教に打ち勝つことを恐れて、狂ったようになっていた。私たちに発見されて、狂ったように毒を塗り込んだ書物を食らい、私たちをも閉じこめようとした。しかし、その争いの中で、燭台の火が羊皮の書に点火、文書館は火につつまれてしまった。火は三日間燃え続け、ついに僧院を完全に瓦解させてしまった。
歳月を経てこの地を訪れた私はわずかに残った羊皮紙の残骸などをたよりにこの物語を書き記そうと誓った。
著者は中世ヨーロッパ史の専門家であり、これが処女作であるという。教皇と皇帝がどちらが権力を握るべきか、キリスト教はどうあるべきか、科学の発展に対してキリスト教の教えはどうあるべきか、などについてヨーロッパが揺れていた時代である。あるべき主義なるものが、公平な見方からではなく、単に自己の権力伸張、保身、欲望の達成達成などの目的のために利用されていた。しかも具体的手段として、他の宗教には見られぬほどの苛烈さをもった拷問、異端審問裁判、火あぶりなどの刑が適用されていた。その様子が実にリアルに書かれていることがなんと言っても特色である。
一方でキリスト教の非寛容性が非常に強く感じられる。しかしこの頃の論争が、ヨーロッパ近代キリスト教の原点となり、16世紀に入って宗教革命をもたらしたと言う解釈も成り立つと思う。
推理小説と言うことを、作者は意識していないようだ。たしかにウイリアム師は、シャーロック・ホームズばりの明快な推理を展開してみせるが、さりとて推理の過程が十分に示されているわけでも、犯行過程や動機やさらには犯人まで明示されているとは言い難い。
・小さき羊飼いたちは行く道筋で出会ったユダヤ人を一人残らず打ち殺して、その財産を掠奪した・・・・「なぜ、ユダヤ人を?」・・・・「生涯かけて、説教師たちからユダヤ人がキリスト教徒の的であることを、またユダヤ人がおのれの身に否定された財産を蓄えていることを、たたき込まれているのだった。しかし十分の一税を賦課することによって本当に財産を蓄えているのは、領主や司教たちではないか。(上304P)
・修道士たちが清貧を説けばそれは皇帝側に組みすることを意味し、そのことが教皇のお気に召さない・・・(上382P)
・哲学への憎悪にゆがんだあの顔の中に、私は生まれて始めて反キリストの面影を見た。・・反キリストは、他ならぬ敬虔の念から、神もしくは真実への過多な愛から生まれて来るのだ。(下370P)
平凡社世界大百科辞典より
アヴイニョン幽囚:ローマ教皇が1309−77年の約70年間ローマを離れ、南フランスのアヴィニョン市に居をしめた歴史事件をさし、時にこれを教皇の「バビロニア幽囚」とも呼ぶ。13世紀の前半、教皇権はドイツ皇帝フリードリッヒ2世とイタリアの支配をめぐってはげしく抗争したが、1250年の彼の死後、その領地だった南イタリアおよぴシチリア地方のドイツ勢力をくじくため、この地方をフランス王家アンジュー伯シャルルにあたえた。かくてナポリのアンジュー家の宮廷を中心として、フランスの勢力はドイッに代ってイタりアを支配するに至り教皇権もこれに動かされた。ことにフランス王フィリップ4世の強引な対教会政策に対して、ボニフェキウス8世のはげしい抵抗もむなしく、1305年教皇座にのぼったクレメンス5世以下7代の教皇はすべてフランス人であり,フランス王権に依存するその道具にすぎなくなった。1309年教皇庁はアンジュー家の領地であるアヴィニョンに移され、1348年には同市は教皇領となった。ローマ教皇がこのように独立性を失ったことは、教会の威信を害することひじょうなものであった。イタリアの教皇統治国は君主不在のため冶安が乱れ、これを維持するための軍事出費は少なからず、かつ行政管理のため巨大な官僚機構を必要とし、大きな経済負担となった。他方、教皇領からの税収入は多く失われこの財政困難を救うため、とくにヨハネス22世のもとに教会税機構が完成され、あらゆる名義で聖職者、一般信徒から教会税をとりたて、このため教会は金権政冶的となり、堕落ははなはだしく、人心をローマから離れさせる原因となった。一方、教皇庁は仏伊文化の活発な交流点となり、イタリア・ルネサンス文化を生む機運を作った。1377年シエナの聖女カタリーナらの努力によりグレゴリウス11世はローマに帰ったが、教会内のフランス勢カはアヴィニョンに対立教皇をおし立て、37年の教会分裂を生んだ。(木間瀬精三)
ヨハネス22世:1249〜1334本名はウーズJacques d’Euse。教皇(在位1316〜34)。アヴィニョン教皇の1人で、強力な教会政冶家。南フランス出身で、フランス王の利害により動きながら、なお頑強に自我を貫き、妥協を知らぬ性格であった。ドイッ国王ルードヴィヒ4世と衝突し、またフランシスコ修道会の「清貧論争」をめぐる内紛に干渉し、オッカムらを中心として会の無所有の原則を強く主張する「精神派」と争い、両者の共同戦線と教皇側の間に盛んな実りある論争があったが、教皇は自己の手を経ずして神聖ローマ皇帝となったルードヴィヒを破門し、彼の立てた対立教皇を屈服せしめ、精神派を異端として弾圧した。また教皇庁の官僚制度をととのえ、聖職位に種々の重税を課し、教会税制を確立した。(木間獺精三)
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