無実はさいなむ       アガサ・クリステイ


ハヤカワ・ミステリ文庫 ORDEAL BY INNOCENSE 小笠原 豊樹訳

 クリステイの作品は一作ごとに工夫が凝らされていて感心する。これも「女主人殺害事件が、出来の悪い息子のジャックの犯行と言うことで解決したが、新証人があらわれ、実は無罪、犯人はまだ家庭内にいるという事になり、疑心暗鬼になった家族の視点からの記述」という実にユニークな書き方が特色になっている。
 北極探検や交通事故でしばらく俗世界と隔たっていた地理学者のキャルガリが、二年前の夜(犯行時刻)自分が乗せたジャッコなる男が、資産家レイチェル・アージェルの殺害犯と言うことになり獄中死したと知って、アージェル家を訪問することからこの物語ははじまる。
 ジャッコのアリバイを証明し、喜ばれると思ったところ、実に冷たい仕打ち。実は殺されたレイチェルは莫大な資産を持っており、リオと結婚したが子供の出来ない身、慈善事業に熱中したあげく、次々と不幸な家庭の子を引き取り養子にした。
 レイチェルは子供たちに親切だったが、常に自分の主張を通し、善意は子供たちには迷惑がられていた。夫のリオは息苦しく感じ秘書のグエンダと良い仲、メアリは脊髄カリエスの夫フィリップと一度は独立を試みたが失敗し舞い戻った。マイケルも、ヘスターもテイナも独立はしたいが、さりとてレイチェルにはさからえなかった。一番不良のジャッコは金を出してもらって事業を興しては失敗、その日も無心にきていた。
 そんな中でレイチェル殺人、それが不良の評判のジャッコの犯行、一同にとっては実は解放のように思えた。それが別に真犯人がいるとなると彼ではないか、彼女ではないかと疑い、疑われて落ち着かなくなる、と言うわけだ。
 実はジャッコは、お手伝いのカーステインとも関係、彼女にレイチェルを殺させ、金を奪ったのだった。しかし犯行後ジャッコには妻がいるとわかり、カーステインの心は醒め、ただ真実を隠蔽することにのみ心を砕いていたのだった・・・・。この教唆による犯罪というのも比較的めずらしいように思う。またこの小説で探偵役は細切れで複数でてくるようで外の作品と趣を異にしている。

・昔の中国人は、慈善は美徳でなくて罪であると考えていたそうじゃないですか。そこですよ、問題は。慈善というものは、確かに人のためになる。と同時に、人にいろんな気まずい思いをさせる。人間の心というのは複雑なものでね。(100P)
・「ママは何でも知っている」という状態は、若い人間にとって実に苛立たしいことじゃありませんか。・・・・たびたび汽車に乗り遅れたり、というようなヘマをやる人だったら、もう少し家族の人たちにも好かれていたろうよ。それが人生という奴さ。(133P)
・ある意味じゃ、感謝を義務と感じることは、大変な悪だ。(199P)
・大抵の女の子は、短い期間、母親を憎むものだ。(233P)
・ジャッコのやり方は実に巧妙でした。そう言う女に、心底惚れたふりをする。いったん信じ切ってしまうと、女という者はこわいものです。(265P)