安楽死             西村 寿行


角川文庫

後頭部に怪我をし、記憶を失った男が自分を見つけるためにもがいている。
静岡県石廊崎海岸でスキューバダイビング中に佐藤道子という新宿にある沖病院の看護婦が溺死した。事故として片づけられたが、「彼女は殺された。」との匿名密告電話があった。当日同行者は沖病院院長沖直己、内科医の川野博、看護婦の前田葉子、東京製薬株式会社のプロパー草丘龍二である。
捜査一課の鳴海刑事は妻に去られ、愛犬の鉄には死なれ仕事に力が入らない。上司の野村は、静岡の解決済みの事件ではあるが、彼の自信をとりもどさせようとこの事件を担当させることにする。最初は取りかかり用のない事件だったが、次第に乱脈な医薬界の内部が明らかになり、事件の様相を帯びてくる。(鳴海の鮎川哲也の鬼貫刑事を思わせる地道で粘り強い捜査がこの小説を面白くしている。)
沖は、温厚に見えるが、良性の腫瘍を検査するために造影剤を注射し、患者を死に至らしめ、代議士の兄の力を借りて強引に示談に持ち込んだ過去のある医師である。患者の多くを安楽死させた実績もある。
鳴海の捜査を受けて、当局は当初「遺産の独り占めを目的とした草丘が、不治の病に苦しむ妹を、、沖の協力を得て、安楽死させた。佐藤はその秘密を知ったために殺された。」として起訴した。しかし弁護士は安楽死させたことを認めた上で、世間の同情を引く作戦に出、しかも佐藤についてはあくまで事故であると主張した。
この陳述を聞き、途中で、「草丘は無罪」と考えた鳴海は、休職中の身でありながら突如草丘の特別弁護人を買って出る。そしてその陳述過程で犯罪を解いてしまう。
記憶喪失の男は倉持規夫と分かった。犯人の医師は、当直中に、規夫の一人娘香世にアレルギーに用いる抗ヒスタミン剤と瞳孔検査の際に用いる縮瞳薬ピロカルピンを取り違えて注射し、死亡させた。規夫の妻はこれを悲しみ天竜峡で自殺していた。医師は倉持規夫を自動車で当て逃げし、その記憶を失わせた。さらに当直は別の医師、看護婦が佐藤だったのだが、これも別の人物と見せかけようとした。
鳴海は、「佐藤は、良心の痛みに耐えかね真実をばらすと主張したため、犯人は佐藤を消そうと計画した。佐藤のボンベのリザーブタンクを笑気ガスに変えた。ダイビングの得意な佐藤は深く潜り、深海の洞窟に住むハタを発見、驚くこともなく交流を楽しんだが、少し苦しくなったのでリザーブタンクを作動させたところ、空気の変わりに笑気ガスが出て死んでしまった」と主張する。

スキューバダイビングを使った犯罪と言うと、コーンウエルの「死因」が思い浮かんだ。「死因」の場合、青酸ガスを空気に混ぜて吸わせるのだが、どうやって混ぜたのかが良く分からない。その点こちらは良く書けているが、水中でバルブを開けた場合、果たしてボンベが海水を吸い込むものかどうか良く分からなかった。
作品の膨らませ型にうまさを感じた。単なるスキューバダイビングによる殺人だが、それから医者の世界の問題点をつき、いったんは犯人が草丘と思わせ、特別弁護人というウルトラCを使って真犯人を暴くというスタイルをとっている。

・ 急上昇=口笛を吹く容量で肺の高圧空気を押し出しながら急上昇せよ。(67P)
・ 造影剤を動脈に注入したんです。ところが、どこかに奥さんは血栓があった。それがちぎれて脳にとんだんです。(92P)
・ 医療の過誤による犠牲者はゴロゴロしている。だが、鳴海は、医師という職業が必要悪的に産むモラルの低下…・よいうよりも人間としての汚さを感じるのだった。精神的な吝嗇を思うのだ。(96P)
・ 造影剤は使用中止している医師が多いのだ。間違えば悲惨な結果になる。それに、血栓の有無を予測しなかったのは手落ちだった。(101P)
・ 医薬分業について(151P)
・ 臨床試験における三た報告(使った、治った、利いた)(152P)
・ 医療過誤を含めて、事後処理についての面白い統計がある。当事者間の話し合いの解決が五十三パーセント、黙ってすませたのが十七・八パーセント、医事紛争処理委裁定が六・九パーセント、裁判が六・八パーセント…(153P)
・ 慢性胃炎やリューマチの薬のクロロキン、こいつで失明した患者は多い。また、キノホルムがそうだ。じっさい、胃腸の薬を飲んで胃腸を悪くするボルホルムなんていうのは…・(167P)
・ ポックリ寺(180P)
・ 世界最高の透明度は西インド諸島の藻海で有名なサルガッソ・シーで、七十メートル近く、黒潮はそれについで四十メートルある。黒潮は海流である。海には潮流と海流がある。潮流は月の引力で起こる潮汐のことであり、ふつう六時間ごとに反転を繰り返し、干満を造る。(311P)
・ 麻薬遊び=塩酸ペチジン(386P)

ピロカルピン=南アメリカ産のミカン科の植物ヤボランジの葉から取ったアルカロイド。普通塩酸ピロカルピンとして分泌促進薬または瞳孔縮小薬として用いる。アトロピンと反対の薬理作用を持ち、発汗剤として一日数回0.005-0.015gを内服する。毒薬のためため一日の極量を0.04gと定めている。(平凡社世界百科事典抜粋)

抗ヒスタミン剤=アレルギー性疾患の直接の原因と考えられるヒスタミンまたはヒスタミン類似物質と対抗して、アレルギー症状を緩和する物質。したがって抗ヒスタミン剤はアレルギー剤に属するわけである。(平凡社世界百科事典抜粋)
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