新潮文庫
昭和42年夏場所のころ、両国回向院の石碑に陰から、秋田県花輪郡の校長をしていた横井が絞殺死体で見つかった。14日目、大関大龍はライバル富士穂鷹を破って優勝した。しかしそれをみていた新聞記者の漆原は両者にどうも力が入っていないように感じた。横綱審議会では大龍を横綱昇進を決定したのだが、彼は横綱推挙を断ってしまった。
昭和36年10月野球部員だった篠田大輔は本橋武男に進められて奉納相撲に飛び入り、負けそうにない相手を投げ飛ばしてしまった。翌年大輔は足立区にある中小企業に勤めることになっていたが、元刑事村尾の紹介で旭川部屋に入門した。大輔が行く予定だった会社には武男が行った。二人のアイドルだった本庄由子は川口の鋳物工場に勤めることになった。
昭和33年はじめの頃山谷ドヤ街に小売店をだしており、山谷環境浄化推進委員会の古木田商会社長古木田が誘拐された上殺された。この事件を定年を一年後に控えた村尾が担当した。容疑者に使用人の丘瀬光男があがったが彼は姿を消した。しかし丘瀬は図体が大きく力持ちで、相撲好きの村尾はかって将来の横綱と目されながら交通事故の後遺症で引退、行方知れずとなった大龍ではないかと考えた。事件は迷宮入りになったが、いつか丘瀬を発見し、事件を解明したいとの信念を持ち続けた。
上京した三人の中学生の運命は大きく変わった。大輔は篠田のシコナで恋人になった由子との問題はあるものの順調に出世していった。しかし武男の就職した江東機械は当初の話とは違い環境劣悪でひどい職場だった。やがて彼は飛び出し、キャバレーの呼び込みをやるなど次第に身を持ち崩して行く。由子は耐えていたが村尾や横井に出世の妨げになるからと大輔との交際の中止を求められ絶望する。その上、卑劣な横井に体を奪われ…・。
昭和42年夏の事件はそんな状況の経過の後に起こったものだった。村尾の情報からひょっとしたら父があのかっての大龍で殺人犯ではないか、と横綱を辞退する篠田改め大龍。横井に対する恨みを武男に打ち明ける由子。そして丘瀬の登場…。
実に丁寧な安心して読める書きぶりである。情景描写など実に味わいがある。しかも推理小説としての要素、青春小説としての要素の両面を持っている欲張りぶり。ホームドラマとしても十分通用する。西村京太郎の「終着駅殺人事件」、藤村正太の「孤独なアスファルト」を思い浮かべながら読んだ。
解説(坂東齢人)によれば作者は、弱者を食い物にする輩を告発するために小説を書いているのだ。弱き者たちに、数は少なくとも理解者はいるのだ、くじけるな、と訴えるために小説を書いているのだ、と言う。その作品を読むのは「絆」に続いて二作目だが、なるほどと思った。
・ 山谷
五月晴れの空に白い雲が漂っている。
漆原は地下鉄日比谷線南千住駅を降り、山谷通りから明治通りと交差する泪橋の交差点を横断し、山谷地域に足を踏み入れた。
山谷という地名は、去年の十月に住居表示変更によって台東区の地図から消えた、簡易宿舎の密集している辺りは今では、清川二丁目、日本堤一丁目、同二丁目になる。一口に山谷地域というが、町全庫がドヤ街ではなく、清川一丁目や東浅草二丁目などは住宅、アパート、商店、工場などが立ちならび、ふつうの市民生活を送っている。
労働者らしい風采の男の姿がぽつんぽつんと見えて、簡易宿泊所の看板も目立ってきた。表通りに出ると、酒屋の店先は立ち飲み客でいっぱいだった。道路端にも、数人の男たちがコップ酒を片手に腰を下ろしている。仕事にあぶれた労働者だろう、赤銅色に焼けて目だけをぎょろつかせているが、一人ひとりの顔はどこか気弱そうだ。(345p)
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(1990 43歳)