創元推理文庫
二廃人
井原氏は、湯治場で斉藤氏の戦争での武勇伝と古傷をおった、経過を聞いた。そこで彼は、恥ずかしい自分の身の上を話し始めた。
「私は一種の夢遊病だった。朝起きると記憶がないのに、夜中に熱弁を振るったり、友人の時計を持ち出したりしたらしい。そんなことはない、と思うのだけれど、証拠の品が自分の部屋にあるのだから仕方がない。ある時下宿屋の老人が殺されて債権などが持ち去れれた。ところがその債権などの入った風呂敷が私の部屋にあったのだ。私は訴えられ、裁判になり、ようよう釈放されたが、そのために私は廃人のようになった。」
聞いていた斉藤氏が「その後は夢遊病は起こっていないのですね。誰か下宿屋の老人を殺したいと願っている者があなたを利用したのでは無いですか。」風呂を出て行く斉藤氏の後ろ姿を呆然と見送って、井原氏は「あいつが私をだました男かも知れない。」と思うのだけれど、どうすることも出来ず、苦笑いするばかり。
(1924)
D坂の殺人事件
私は、D坂の途中のコーヒー屋で、見るともなく向かいの古本屋をみていると、最近知り合いになった明智小五郎がやってきた。古本屋の店番の女将が格子戸を閉めて奥に入ってしまった。女将は、明智の幼なじみとのことで、なかなかの美人だ。時々人が古本屋に現れては消えるのだが、女将はいっこうに姿を見せない。様子がおかしいので、駆けつけて見ると女将が首を絞められて殺されていた。警察が調べるが、裏口にいたアイスクリーム屋は、誰も古本屋に出入りした者がいないという。すると並びの店の者の犯行だろうか。
一件おいた隣のそば屋が、奥の手洗いを借りに来た者がいると主張、そば屋の奥と古本屋は土間がつながっていることから、私は、明智がコーヒー屋に来る前に殺したのでは無いかと考えた。しかし明智は一笑にふし、古本屋とそば屋の二人の女将に生傷が絶えなかったという噂があった点に着目、表からも裏からも見られることなく犯罪現場に近づける者がいることを指摘する。
・明智小五郎 「ぼくは人間を研究しているんですよ。」・・・二十五歳を越してはまい。どちらかと言えば痩せた方で、歩くときに変に肩を振る癖がある。・・・いわゆる好男子ではないが、どことなく愛嬌のある、そしてもっとも天才的な顔を想像するがよい。・・・モジャモジャになった髪の毛を、さらにモジャモジャにするためのように引っかき回すのが癖だ。服装などは一向かまわないらしく、いつも木綿の着物によれよれの兵児帯をしめている。(50P)
・連想診断法・・・名作「心理試験」を思い出す解説。(63P)(1925)
赤い部屋
七人の男が赤い部屋で蝋燭の光の元恐怖話をする。今日は初出場のT氏。
「3年前、交通事故を起こした男に、被害者をMという藪医者に連れて行けと助言した。被害者は藪医者の元で死んだ。この場合殺人犯は誰だろうか。横断歩道を渡ろうとしたおばあさんに「危ない!」と声をかけたところ、そこに自動車がつっこんできて死んだ、天の邪鬼のあんまに「左を通れ!」と声をかけたところ、案の定右を通って、深い穴に落ちて死んだ、避雷針の針金の被覆がはがれていたので少年をけしかけておしっこをさせたところ、感電して死んだ、けしかけて男を飛び込ませたところ、海中の岩に頭をぶつけて死んだ、そんな風にして私は今まで99人を殺した。今日は100人目の殺人をするのさ。」T氏は懐から銃を取り出し、女中にむけて引き金をひく。女中はなんともない。「おもちゃさ。」今度は女中がT氏にむけて引き金を引くと、銃声一発、T氏は倒れ、胸から赤い血が噴き出す。ところがまたまたT氏が起きあがり・・・・。(1925)
白昼夢
あれは白昼の悪夢か、それとも現実の出来事か。群衆の中で男が叫ぶ。
「私は浮気な女房を錐で一突きにして殺した。それからバラバラにして水洗いし、かわいい屍蝋にした。」みんなは気違いのよまよいごと、と笑っている。しかしガラス箱の中にはにっこり笑った女の顔!私は眩暈を感じながら、ヒョロヒョロと歩き出す。(1925)
毒草
よく晴れたある日、私は友人と小高い丘に行き、一むらの植物について説明する。それは堕胎にきく薬で、私は友人にせがまれ使用法まで細かく説明した。ところが気がつくとそれを金がなく子沢山の郵便配達夫の妻が聞いていた。やがて彼女は流産をし、腹はへっこんだ。まねをした者がいたらしく、私のおばさんは「今月は流れ月。」と言った。再び丘に行くと、あの植物が何本もちぎられていた。(1926)
火星の運河
大森林を抜け、丸い沼を泳ぎきると、私の体は豊満な乙女になっていた。私は楽しく沼を泳いだが、何か足りない。紅の色だ。私は自分をかきむしった。血がとうとうと流れだし、運河を作った。「あなた、あなた、あなた。」妻の呼ぶ声。私は夢を見ていたのだ。(1926)
お勢登場
病身の格太郎は、妻のお勢が浮気をしていることを知っていながら、この事を考え、責めることもしない。お勢が出かけた後、息子の正一たちに話を聞かせ、それから隠れん坊になった。格太郎は、押入の長持ちの中に隠れた。ところが気がつくと掛けがねがかかって出られない。お勢が帰ってきた。幸い彼女は長持ちの格太郎に気がつき、ふたを開けかけたが、なんともう一度閉めてしまった。やがて格太郎の死体が発見され葬儀が営まれた。長持ちのふたの裏には格太郎が必死の思いで書いたオセイの文字が残されていた。「私のことを最後まで考えてくれて・・・。」とお勢は涙ぐんで見せた。(1926)
虫
柾木愛造は裕福な家に生まれたが、人間の顔さえ見れば涙を流すほど内気であった。長じて浅草公園近くの旧家の土蔵に一人住むようになった。彼のたった一人の友人池内光太郎がある時木下芙蓉という大女優の話をした。ところが柾木は芙蓉を幼いときから密かに慕っており、悪童の芙蓉宛恋文の代筆までしたことがあった。池内の計らいで運命的な再会の運びとなった。
ある時柾木は芙蓉を劇場前で待ち伏せ、車の中で手を握るが芙蓉は突然カラカラと笑い出した。芙蓉は、闊達で如才のない池内と出来ていた。そのときから柾木に殺意が芽生えた。彼は車の運転を習う一方、池内と芙蓉を執拗に尾行する。二人の愛の語らいを聞き、嫉妬がつのり、ついに爆発の時を迎える。ある時、タクシー運転手に化けて芙蓉を待ち伏せ、途中で絞殺してしまう。
死体は当初井戸に捨てるつもりだったが、愛しさが募り、土蔵に運び込む。やがて死後硬直が解け、屍斑が現れ始める。最初は氷で冷やそうとしたがうまく行かず、次に化粧をして外見をごまかそうとする。やがて体内にガスが発生し、死体はぶくぶくと膨れるに及び防腐剤を注入しようと試みる。しかし素人ではうまく行かない。そして・・・・。(1929)
石榴
警察官の私は「犯罪捜査録」を書いているが、「硫酸殺人事件」は中でも変わった事件だった。その年、信州の温泉に静養に行っていたが、推理小説に好きそうな猪俣という男と懇意になった。彼に懇望されて私は断崖の上で事件のあらましをかたった。
十年前、名古屋の郊外Gと言う町で巡回中の警官が、廃屋の中で硫酸を無理矢理飲まされて死んでいる男とそれを描いていた青年画家を発見した。翌々日の晩になって名古屋名物狢饅頭本舗の女将谷村絹代から、夫の万右衛門が失踪したという連絡が入った。失踪時期は硫酸男の死亡時刻より一晩あとになる。
名古屋では狢饅頭本舗を自称して長い間谷村家と琴野家が争っていた。しかし最近は琴野家がおちぶれ、当主琴野宗一は店をたたんで谷村家に無心にくる有様だった。絹代によればあの硫酸死体は服装から琴野宗一に違いないという。すると谷村が琴野を殺して逐電したとの解釈がなりたった。
ところが私は万右衛門の日記に記された指紋が硫酸男の指紋と一致することを発見した。金庫からは万右衛門が預かっていた町の建設資金が紛失していた。すると殺されたのは谷村万右衛門、殺したのは琴野宗一、琴野は谷村に化けて一晩谷村家で過ごしたと言うことになった。その琴野は未だに逃亡中である。
私の話を聞いて猪俣氏は「じゃんけんでは相手の戦略の裏の裏をかかなければ勝てない。この場合も万右衛門が当局を最初からのせようとしていた、と考えられないか。日記帳のようにわかりやすいところに指紋を残しておいたのではないか。」そういって彼は入れ歯をはずすなど変装を次第に解いていった。記憶をたどるとなんと谷村その人ではないか。あのとき大手資本におされて狢饅頭は破産寸前だった。私には明子という愛人がいた。そこであの劇を仕組んで、琴野を殺害、上海にずっと逃れていた。しかし日本は恋しい、明子は死んだ、などであなたに真実を話す気になった。おっと、私を逮捕しようとしてもだめですよ。わたしの方が力は強いんだから。
・「トレント最後の事件」には、犯人が自分が殺した人物に化けすまして、その人の書斎には行って、被害者の奥さんを欺瞞するという公式のトリックが使用されている。(272P)(1934)
防空壕
君、眠いかい?今、僕らは平和論をやったね。だけど僕は本来反社会的なものだと思うよ。あの空襲のとき、僕はB29が町を襲い、火の手があがるのを本当に美しいと思っていたものね。
あの晩僕は大塚あたりを帰路についていたんだが突然の空襲。あっちでもこっちでも火の手が上がり、逃げまどった。そして氷川町あたりにあった打ち捨てられたような防空壕に入っていったんだ。するとそこにひどく美しい女がいた。爆撃の中、いつの間にか手を握り、裸になり関係してしまった。後でその女を探したんだけれど分からなかった。その防空壕にはもう一人離れたところに婆さんがいたんだが、気がつかなかったようだよ。
こんなに酔っぱらったのは久しぶりですよ。皺くちゃ婆さんのエロ話を聞きたいんですか。オホホホホホ。爆撃を受けたとき、防空壕に一人でいたんですけど、すてきな青年が入ってきたんですよ。爆撃の音を聞きながら興奮してなるようになったんですわ。
空襲が終わって、その青年がわたしを捜してやってきたんですよ。わたしを若くて美しい女と錯覚して覚えているんです。恥ずかしくて、ほんとのことなんか言えませんでしたわ。
・国土全体が灰燼に帰するほどの大火焔ともなれば、さらにさらに、美しいだろう。ここではもう死と壊滅につながる美しさだ。(278P)
・この世の終わりのような憂慮と騒乱の中で、情欲どころでは無いというかも知れないが、事実はその逆なんだ。僕の知っているある青年は、空襲の度ごとに激しい情欲をも通したと行っている。そしてオナニーに耽ったと告白している。(290P)(1955)
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