講談社文庫
叙情あふれる短編集であるが、私はこれを推理小説と呼ぶべきか、否か考え、断然呼ぶべきものと考えた。読者にこの作品で投げかけられる謎は、犯人を求めると言う普通のものではなく、人生の秘密、あるいは物語り全体が抱える謎とも呼ぶべきものだ。
文章に情感が溢れている。樋口一葉の男性版だな、などと感じたりする。
・ 「春だったのね。」女がさっき綿毛に向けてつぶやいた言葉を辰治は思い出した。窓からこんなまじかに花の盛りが見えるのに、その花の豊穣な色にさえ女の空に結んだ目は春を見落としていたのだろうか。戦地に多党としている自分のかぎられた生徒、まだこの先も限りのないまま、春の色に染まることもなくこの家で朽ちていこうとしている女の生を比べると、限りがないだけに女の生の方が哀れに、酷いいことのようにさえ思える。(89p、炎)
・ 長谷寺はその登廊で名高い。畳を少しづつずらして積み上げたような緩やかな石段が木の柱と手摺を連ねて、吐息が出るほど果てしなく真っ直ぐ伸びている。一段毎に長い歴史を過去へと溯っていくようで、足音が色褪せた絵巻物の世界へと巻き込まれていく気がする。・・・・花は炎に似て、あの時二人はたがいの胸に同じ色で燃え上がるものを熱い痛みと感じながら、ただ無言で登廊をのぼった。登廊ではなく、一つの罪をのぼりつめたのだ。(141p、火箭)
瓦斯灯
峯は十八で質屋の佳助に嫁いだが、佳助は四年前酔ったあげく博徒を殺めて監獄に入った。今は点灯夫している倉田安蔵と再会したが、彼は三十路をすぎた峯と娘に気を遣ってくれた。実は峯は安蔵と一緒になるつもりでいたのだが、材木仲買をやっていた父が二百円を盗まれ、佳助のもとに相談にいったところ、娘を嫁に呉れるならという条件で出してくれた。そしてそのころ手癖が悪かった安蔵が疑われたのだった。監獄の佳助が「他に女がいる。分かれてくれ。」と言い出した事は渡りに船だった。峯が積極的に働きかけ、安蔵との再婚がまとまりかけた。九月の末の台風、夜通し助けてくれた安蔵の家に行くと、こちらも惨澹たるありさまだった。峯は仏壇を片づけ始めたが、骨壷が転がり落ち、中から懐紙につつんだ二百円が出てきた!盗まれた二百円なのだろうか?
花衣の客
「死に水を取ってくれないか、今からその朧月で・・・。」飯倉の声に紫津は振りかえった。志津が母と飯倉健蔵の関係を知ったのは、大正十五年、十五になった年の初夏だった。やがて飯倉は娘の紫津を認め「お母さんに似ている。」となんども言った。飯倉の妻が紫津を訪ねてきた。二人の女は声を荒立てることなく、静かに茶を飲んで対決した。時に紫津は相手をさせられ、最後には飯倉の妻にほほを打たれたこともあった。母はやがて飯倉と心中事件を起して他界した。
それから飯倉は妻とも別れ一人暮らし、月に一度母の思い出の残る朧月で茶を飲みに紫津の元に来るようになった。そして今、飯倉の死に際し、紫津は母が本当に嫉妬した相手を知ることになった。
炎
「兄さん、あんた、戦地に行ったら必ず死ぬよ。」女は心から明日戦地に赴く辰治のことを思っているようだった。「いや、いいんだ。必ず生きて帰りたいと思っているわけではないんだ・・・・」と辰治。女は「私と一緒に死なないか。」などと言う。女が別の客が来て消えた後、一眠りした頃、刑事が訪ねてきた。竜三という男が秀を殺したらしい。刑事は竜三が女郎屋を出た時間を聞きに来たのだ。女は竜三のために辰治の懐中時計を進めておいた。しかし辰治は女の言葉にほだされて、明日の招集にわざと遅れるように時計を遅らせておいた。すべてが明らかになって辰治はきっと生きて戻ろうと心に誓い、爪に火を点し、闇の中で女を抱く。
火箭
異端の画家伊織周蔵が脳卒中で亡くなった。大手出版社の美術誌編集に携わる野上秋彦は葬儀に駆けつけ、若作りの妻彰子によって初公開される遺作「火矢」を見ることになった。火矢は周蔵の父の小説「火矢」を素材にしたものである。平家の落人が昔自分の愛した女が他の男と一緒になったと聞き、三本の火矢を放った。日本は女と相手の男に向けて、そして最後の一本は自分に向けて。ところが遺作は闇の中にたった一本の火矢が描かれているだけで人々は解釈に窮した。
実は野上はいつのころからか彰子と深い関係になっていた。葬儀の後、彰子は告白した。夫の死は実は自殺だった。夫は私たちのことを知っていたのみならずけしかけた。あの絵には実は三本の火矢と私たちが描かれていたが、塗りつぶした。
親愛なるエス君へ
親愛なるエス君。私は君が二年前にパリで犯した人肉事件に触発され、この手紙を書いてゐ屡。文明がこれほど人間から獣性を奪ってしまったこの時代に、まだ君のような、同類の肉を餌として自分の肉に消化してしまえる人間がいることを知って感嘆したのだ。私は自分の欲望を達成するために三人の女を選んだ。しかし結局彼女たちは不都合であることに気付いて分かれたが、半年後、ひき逃げ事故を起し、弱みをつかんだ女医を選んだ。ホテルの浴室で彼女はシャワーを浴びていた。私が斧を持って入って行くと両手で口を押さえ、悲鳴を上げた。私は人肉を材料に特別の味付けのシチュウを作り、友達に振る舞い、自分も食した。
それだけだが、私と君の立場は一点だけ違う。エス君、君は人肉を食いたかった。私は食われたかった!
010401