陰獣・芋虫     江戸川 乱歩


創元推理文庫日本探偵小説全集2

陰獣

 実業家小山田氏変死事件が終わってから大分月日が経ったので、あの事件に深く関わった小説家の私は記録めいたものを書いてみることにした。去年の夏、上野の帝都博物館で実業家小山田六郎氏夫人、静子と知り合った。なぜか彼女にうなじにはみみずばれの跡があった。互いに惹かれたせいか、彼女から私は悩み事を打ち明けられた。

「結婚する前、私は短い期間平田一郎なる男と関係した。その後私は小山田と結婚し、幸せな日々を送っている。ところが最近平田から脅迫状が届いた。「私は大江春泥という筆名で文壇に登場し、成功した。そしておまえの居所を探し当てた。よくも私を捨てたな。捨てられた恨みは一生忘れない。おまえも亭主も殺してやる。おまえのことはすべてわかっている。」との手紙を受け取った。そして実際に私たちの閨のことまで詳細に書かれている。恐くて仕方がない。」

 大江春泥は今から4年ばかり前に、突如として現れた探偵小説家である。寡作だがすばらしい小説を発表していった。それは一つ一つ、血みどろで、陰険で、邪悪で一読肌に粟を生じるていのものだったが、それがかえって読者を惹きつけた。しかし徹底した人間嫌いで、出版社の人間に対してすら会わず、奥さんが代理で用を済ませる、と言う風だった。そして次々と転居を繰り返しているのである。

 そのような脅迫状が続き、私はつてを求めて大江春泥の跡を追うがつかめない。そんなとき小山田六郎氏が行方不明になり、やがて隅田川で水体となって発見された。鋭い刃物のつき傷があり、鬘をかぶせられていた。私たちは警察に届け、警察は大江春泥の犯行と考え、行方を必死で追ったが見つからない。

 しかし私は屋根裏を調べた結果、小山田氏の手袋のカフスボタン、さらに小山田氏の手文庫の中からは静子と平田の関係を知っていた事を証明する書類、大江春泥の作品の載った新青年等を発見した。そのような証拠から私は「小山田六郎氏は惨虐色情者で、鞭の打擲に加え、屋根裏から静子夫人の一人居をのぞくなどして楽しんでいた。それが講じて、結婚前の恋人平田の名をかたって静子を驚かした。しかし軒蛇腹から足を踏み外すという偶然の事故で、隅田川に落ちて死んだんだ。」との上申書を提出した。

 その後私は夫人と深い関係になった。しかし、屋根裏から発見されたカフスボタンが、以前に小山田が運転手に与えたものと一致したこと、大江春泥がいっこうに姿を見せないこと、脅迫状が小山田の死後届かなくなったこと、大江春泥の転居先が一つの円を描き、その中心に夫人の家があることなどから、私は「あなたは小山田夫人のほか平田こと大江春泥、さらに春泥の妻の役割と一人三役を演じていた。あなたが小山田六郎氏を殺害したのではないか。」と夫人をせめたてたのだった。

 乱歩の代表作の一つとの事。確かに、トリックが優秀、雰囲気もよく出ていて優れた作品と思う。しかし、静子の立場を考えると、大江春泥をなぜ無理に登場させたか、という疑問が残る。また畦上三郎「推理小説を科学する。」は「一人三役の構想は、推理小説のアイデアとしては卓抜であるが、科学的吟味にはたえるものではない。」としている。(同書131p)

(1928 34)

芋虫

 三年前、須長中尉は戦場で両手両足を失い、さらに口まで聞けなくなってしまった。戦場から帰った時は、英雄として迎えられ、妻の時子も少しは晴れがましい気持ちになったが、それも時間と共に変わってきた。今は荒れ果てた屋敷に芋虫のような夫と二人の生活、身の毛もよだつような情欲が心に巣くって、あわれな片輪者の亭主を、何か情欲を満たすだけのために、飼ってあるけだものででもあるように、思いなすほどに変わり果てているのだ。

 そして男の嫉妬しているような目、彼女はその目に耐えかねて、ある時、その目を攻撃してしまった。翌日時子は、正気に戻り、ユルシテと涙を流し医者をよびにやる。しかし医者も怖がって適当にして逃げ出す。鷲尾老少将を呼びに行って戻ってみると芋虫がいない。そして部屋には口に筆を加えて書いたらしいユルスの書き付け。胸騒ぎがして外に出る。古井戸近くに行くとなにやら動いている。突然それが視界から消え、トボンと鈍い水音が聞こえてきた。

 時子の変わり果てた夫に逃げ出すでもなく、浮気をするでもなく、いっそうの情欲を駆り立てるところがすごい。やりきれなさと肉体の本能的なうづきが交錯する書きぶりである。

(1929 35)

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