入唐求法巡礼行記     円仁


中公文庫 深谷 憲一 訳

慈覚大師円仁の838年から847年にいたる10年間に及ぶ全体4巻よりなる中国旅行記である。西尾幹二の「国民の歴史」でマルコ・ポーロの「東方見聞録」に劣らぬものと推奨されていたので読む気になった。
最初に(解題)に書いてあるポイントを抜書きする。
円仁は794年下野国都賀郡出身で、15歳のとき比叡山に登り最澄に師事するようになった。21歳で得度、23歳で東大寺で具足戒を受けて比丘となった。
遣随使、遣唐使は、小野妹子らが推古天皇時代に派遣した外交使節団に続いて、630年に犬上御田鍬を第一回として派遣された。古代における大陸と日本を結ぶ文化の点線として重視されたが、894年菅原道真の提議により廃止された。
円仁等の第十七次遣唐使は最後の遣唐使である。大使藤原常嗣、副使小野篁だったが、出発時のトラブルで篁は乗船を拒否した。837年、4隻あった船のうち、無事に出発できたのは2隻で大使とは別行動をとった第二舶は判官良岑宿禰長松を船頭とし、838年に海州に到着、のち円仁等を赤山に送って残した後帰国している。
慈覚大師円仁は開基開山、再起再興した寺が多い。由緒の寺院は全国で502とのことで、中尊寺、毛越寺、端巌寺、立石寺、輪王寺、喜多院、高幡不動、浅草寺、目黒不動、杉本寺、神武寺、伊豆国清寺、長野の善光寺等は全国的に有名である。
838年6月13日に博多を出て、6月末、揚子江河口付近に到着、海陵県等の巡検を受けた後7月末に如皐から揚州についた。10月に大使等一行のみ船で長安京に向かった。
839年乳山をへて赤山にいたる。赤山は山東半島先端近くにある。仏教を学ぶために台州訪問等の要請を大使を通じて出していたが受け入れられた。840年に登州経由で五台山に到着。しばらく学んだ後、唐の都、長安に向かう。多くの仏典を収集した。
長安には5年滞在したが、その間皇帝が文宗から武宗に変わった。武宗は道教を信じ、廃仏棄釈運動を強引に進めた。寺を破壊し、仏像を溶かし、ほとんどの僧侶を還俗させ、その特権を奪った。またこの頃ウイグルと辺境の地で戦いを交えることが多かった。この辺カニバリズムまで記述され迫力がある。
845年帰国の許可を得て東に向かう。ところが揚州でも、登州でも船がなかったり、通過の許可はあるが出港許可の連絡を受けていない、などとされ、帰国の途につけない。ようやく847年新羅人の船頭で、行きと違い今度は朝鮮半島南端をかすめて博多に戻った。
日記であるから、そのまま読むと少し退屈に感じるところもある。また仏教のどこを学び、悩んだのかがはっきりしない気もする。しかしマルコ・ポーロよりも400年も前にこれだけ立派な冒険日記が書かれていたことはやはり驚きに値する。当時の海洋交通の状況、新羅人が通訳や船頭として活躍していたこと、中国国内での交通は原則徒歩だが、運河や水路が広く利用されていたこと、日本の外来文化に対する情熱が非常に高かったこと、円仁が信心強いと同時に非常に強い人であったことなどが忍ばれる。
010426