新潮文庫
高名演出家が突然降板したため、渡伸一郎は、別れた妻が急遽仕上げた原稿を元に、「帝劇秋の特別公演男装の麗人、広野を行く」の脚本を、書かされた。あの川島芳子の顛末記である。主演は、歌舞伎の重鎮中村勘十郎、新劇の重鎮八重垣光子、寄る年波は争えず足下がふらつき、顔寄せもままならない。そして初日の前日、長い間八重垣と新劇の女王の座を争っていた花村虹子の葬式が行われ、暗い影を投げかける。
ところがさすがに名優、初日幕が開くと八重垣光子は即興のアドリブで芝居をどんどん盛り上げて行く。相手役の勘十郎は苦笑いして合わせ、競演している売り出し中の新劇女優は混乱してしまう。とにかく大入り満員。そんなある日、誰も知らないはずの貴賓室の電話のベルがなった。「2億円用意しろ!さもないと大詰めで八重垣光子を殺す。」
最終日。犯人の指摘通り、観客の女性が次々と鋭利な刃物で刺され、死んでいるのが発見される。2億円が用意され、犯人の指示に従って、ヴィトンのバッグに詰められ、羽田に運ばれ、仙台行きフライトに乗せられる。犯人は身近にいる、なんとか突き止めようと、舞台裏では劇の引き延ばし作戦が進む。
ところが事件の概要を聞いた退職刑事塚本は一発で犯人が分かった。あいつだ。昭和26年の連続殺人事件で活躍した疾風の権から教育を受けた渡辺久代だ!逮捕されると分かると、久代は咄嗟に毒を飲んで死んだ。しかし共犯者がまだいる!
前半は公演開始までの記述、最後は事件の解説で、案外に推理小説と呼ばれる部分は少なく、4分の1くらい。また塚本刑事が突如として出現し、犯人を断定してしまうくだりはやや唐突な感じがする。しかし新劇ができあがるまでの人間模様、観客のおばさんたちの会話、公演の様子と大女優の名演技等の記述が謎解き以上に素晴らしい。作者がその世界を熟知しているからだろう。作者はミステリーの傘の元にむしろこちらを書きたかったのではないかと思った。
・公演での老女たちの会話
「ちょっと、ちょっと、ここですよ」
「あら、いい席ね、よかったこと」
和服姿の女性が、ハルの斜め前に腰を下ろした。老婆と言っていい年齢だが、着物も帯も上等のものを着込んでいる。ただし、着こなしはひどいものだった。
「やれやれ、よっこいしょ」
「あら、大変、お弁当を買うのを忘れたわ」
「いいでしょ、幕間に食堂へ行きましょうよ」
「食券よ、食券。それを買い忘れたと言ったのよ」
「いいえ、あなた、お弁当を買うの忘れたとおっしゃったわ」
「お弁当なんていいませんよ」
「いいえ、言いました。歳をとると言い間違えって、よくするものなのよ。」
「でも私、食券っていったわ。ここの食堂ではいろいろのお弁当があるのよ。何がいいかしら。」
「そうよ、ここは地下にいろんな食堂があるのよね。」
「一幕の後で探しに行きましょうよ。支那料理屋もあるんじゃなかったかしら」
「あなたって古いのね。今は支那料理って言わないのよ」
「あら、なんて言うの」
「中華とか中国料理って言うんだって。私は孫に叱られるのよ」(103p)
・クレーは散弾銃だし、ライフルは一発づつ飛ぶんだ。飛距離は問題にならないんだよ。クレーは五百メートルくらい、ライフルは三千メートルぐらい飛ぶからね。(141p)
・銃の免許を取る。・・・所轄警察に鉄砲の講習会を受けたいって申し込むんだ。そこで講習受けて、すぐテストがあって、合格すれば射撃場で教習員から実地教習があって、それがパスすれば鉄砲買えるんだ。(147p)
・警視庁の人事(223p)
・死刑囚でも妊娠してたら、分娩まで執行猶予だからね。(378p)
990906