君よ憤怒の河を渉れ      西村寿行


徳間文庫

「この人がうちに入った強盗です。」新宿の交番で未知の女性水沢恵子からそう言われた時、東京地検のエリート検事杜丘冬人は一瞬何を言われたのか分からなかった。しかし彼女の証言を裏打ちする目撃者寺町俊明も現れ万事休す、このままではすまされぬと一瞬の隙をついて逃げ出す。
能登金剛近くの田舎に水沢を尋ねるが、殺されており、水沢殺害の容疑まで背負ってしまう。ならば寺町と北海道幌別川の田舎を尋ねるがすでに警察の手が回っており、ようよう逃げ出すことに。逃げ惑ううちに、彼は羆に襲われている村の娘を発見し助ける。娘の生家、さらにそこも追われて、ひっそりとあの娘遠波真由美を襲った羆を仇と狙って暮らす老人のもとに身を寄せる。羆はかって老人の妻と娘を食ったのだ!対決、ついに羆を倒すが、老人は命を失い、隠れ場所もしつこく杜丘を追う矢村刑事に発見され、ふたたび逃亡。
青函フェリーで北海道を脱出しようとはかるが失敗、危うく捕らえられそうになったところを真由美の父に助けられ、自家用機を操縦し脱出することになる。鹿島沖で海上着水、いったん北に登って、追手を撒き、奥多摩湖あたりから東京都に入り込む。
なぜ自分が罠を仕掛けられ、追われる事になったのか、考えるうちに厚生省医務局医事課技官朝雲忠志の死にぶつかった。自殺で服毒薬はアトロピンと結論が出されたが、その夜朝雲を東邦製薬営業部長の酒井義広等が訪問していた。そして煙を食う猿、ツグミ、羆の謎!これら事件とどう関わるのだろうか。
情報収集中に裏切られ、新宿で警察に囲まれる。しかし十頭のサラブレッドと共に駆けつけた真由美に救われる。杜丘は、酒井の愛人の亭主武井吉晴が城北病院という精神病院で不審な死を遂げたことに疑問を持つ。東邦製薬が開発している向神経薬A=Zの実験を行っているのではないか。証拠を求めて城北病院に潜入する。しかしそこにはもっと恐ろしい現実があった。モルヒネの過剰投与、新薬投与、ロボトミー手術などで廃人に追い込むシステム。証拠はつかんだものの、院長堂塔康竹等との生死をかけた対決が始まる。

逃亡者を主題にした作品といえば外国では古くはレ・ミゼラブル、逃亡者、日本では熊谷独「最後の逃亡者」、夢野久作「氷の涯」、佐々木譲「五稜郭残党伝」などが浮かんだ。最後の作品はこの作品と似たような部分がある。
しかしこの作品は活劇としてのスリルが断然大きい。映画にしたいような作品である。おそらく最初によほど正確にプロットを考えておいたのであろう。最後の作者の「作品を書くまで」にその事情が書かれていて興味深い。
「白紙の状態だが、いつのまにか<逃亡検事>というイメージだけは出来上がっていた。さて、とぼくは原稿用紙に向かった。最初はコチョコチョといたずら書きから始める。人の名前とか、人間の目玉の絵とか、○や△を無意味に書いて、一日は終わる。二日、三日目になって数行のストーリーらしきものが書ければいいほうである。.....そんなことを十日近く続ける。一種のセレモニーである。......原稿用紙に数枚、細字でビッシリ書き込んだ筋書きなるものが出来上がるのが約半月後である。陣痛までの苦しみが長いせいか、ぼくはこの筋書きなるものにいうにいえない愛着を感じる。右から見ようが左から見ようが、もうこれ以上のものはないような気になる。」

・アトロピンは日本にも自生するハシリドコロなどのナス科植物の根茎からとるもので、スコポラミン、ヒヨスアミンなどと似た化学構造式を持っていた、致死量〇・〇五グラムとされている。致死量を飲んだ場合は延髄に作用して急死することが多い。(86P)
・クモはAの薬を与えられればAの網をはり、Bの薬にはBの網をはる。....網を見れば薬の成分が分かるほどパターンは正確なのだ。(338P)
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