オイデイプスの刃       赤江 瀑


角川文庫

 明るい陽光のふりそそぐ夏の午後、刀研師秋浜泰邦が腹を切られていた。ビキニパンツの剛生が次吉を手にぶらさげて、ハンモックを見下ろしていた。剛生が大上段にふりかぶった刀を、振り下ろした。白刃は泰邦の二の胴から三の胴あたりの腹筋に、すうっと吸い込まれるように消えていった。飛び出した母が、剛生の落とした日本刀を拾い上げた。切っ先は、やはりすうっとわけもなく母の左乳房の下に吸い込まれた。
 「お前がやったんだな。」と明彦が追求すると、剛生は「僕が行ったときは下腹を突いていたんだ。」と悲鳴のような声を上げた。兄弟3人が父大迫耿平の死を知ったのは、それから1時間ばかり後の事である。割腹自殺であった。叔母の雪代一人が取り乱していた。
 大迫耿平には明彦、駿平、剛生の3人の兄弟がいた。明彦は先妻の子、弟の剛生は父と母の間に生まれた子、駿平だけが連れ子で大迫家の血を受けていなかった。耿平の所蔵刀の中に「備中国住次吉作」の切名の入った名刀があった。その刀を5年前から有名な刀研師慶山門下の泰邦が年に1度研ぎに来るようになった。駿平はいつしか泰邦を尊敬し、泰邦が母を慕っていることを知った。しかし泰邦と駿平にまで色目を使う男なら見境のない叔母雪代の情事の現場を見てしまった。
 歳月が流れた。S香料のトップ調香師となった明彦は、東美堂に移籍し、いままでの成果を集積した香水「刀」を作り、発表するばかりになっていた。剛生は出奔した。駿彦は、その剛生を捜し求めると同時にあの時の真実を探り当てようとしていた。東美堂に、パリオートクチュールの「マルセル」から「カタナ」と言う名の香水が発表された、との情報が入った。取り寄せてみて驚いた。変形六角形の瓶は、次吉の刀身そのものだった。成分は明彦が開発したものと酷似していた。情報を漏らしたのではないかとさえ疑われた。
 「カタナ」の開発者が剛生であることは明らかだ。母香代の家は香料会社の社長で母は幼いときに調香室を与えられていた。兄と弟は母が理想としたラヴェンダーの香り馥郁たる香水を開発したのに違いない。
 駿平は、警察にわたっているはずの次吉が蔵刀家の集まりに出品されると知った。出展者は明彦、と知った駿平が押しかけると、雪代と一緒にいること及び泰彦殺しの意外な事実が明らかになった。問答の末、一時的に次吉を借り受ける。剛生と連絡が取れた。ホテルに駆けつけると、剛生は腹に「カタナ」の瓶を刺されて絶命していた。この事件の真実は明白・・・・駿平は次吉を片手に飛び出した。

 母と子のつながりを確保し、父(この場合は泰邦)を排除しようとするオイデイプス王神話に基づくエデイプスコンプレックスを日本的世界の中に置き換えた作品、と言うことが出来ようか。それにしても切れのいい、男らしい文章である。さながら雪の朝、羽織袴で広い和室に居住まいをただすようなりんとした美しさがあるように思った。

・刀は刃物や。人を切りとうさせてくれるような刀やないと、本物やない。させてくる刀は、本物や。それは、呑まれてみんことには、わからへん。刀には、溺れてみるねや。溺れて本性つかむのや。つかんで、さめるのや・・・・(258p)