カッパ・ノベルズ
力作である。推理小説的要素に加えて、存在や死の哲学が語られているところが非常に面白い。丁寧で重厚な書き方が特色で、密室問題の解釈が次々に提出され、議論され、却下されてゆく過程はまさに推理小説の醍醐味と言えよう。
物語はパリ警視庁モガール警視の娘ナデイアが、謎の日本青年矢吹駆と落ち合い、パリ大学のガドナス教授を訪問し、教授がナチ時代のコフカ収容所での思い出を語り、その時代の思想を支えてきたハルバッハ哲学を論議する所から始まる。
ブローニュの森に住むユダヤ人資産家、フランソワ・ダッソーの屋敷で、南アメリカから来たという滞在客が死体で発見された。現場の三階東塔広間に通ずる扉は堅く閉ざされ、鍵はダッソーの書斎の金庫に!
さらに一階と二階に監視の目があり、なんと殺人現場は三重密室を構成していた。
しかし現場に到着した警察、矢吹等は客は実はどこからか拉致されてきたもので、その他の滞在客は昔のコフカ収容所時代の囚人仲間、その子達らしいことを発見し、殺人との味方を強くする。
かってコフカ収容所では、所長フーデンベルグのもとで次々とユダヤ人がガス室に送られていた。しかしソビエトの侵攻が始まり、閉鎖命令を携えて、所長と共にハルバッハの元で死の哲学を学んだヴェルナー少佐がやって来た。その夜雪降る中、突然爆発が起こり、囚人たち脱走する。そのどさくさにフーデンベルグが情婦にしていたハンナが二重の密室で死に、もう一方の密室にはフーデンベルグが茫然自失の様子で取り残された。
二つの三重密室事件の謎に対し、次々に解釈が試みられ、その過程でハルバッハ死の哲学の勃興と崩壊が語られる。ブローニュの館で殺された客は昔のフーデンベルグだった。背後には、彼をねらってダッソー邸関係者からなる「正義の会」が動き、イスラエル政府の援助を受け、モサドが動き、さらに実は正義の士であのコフカ暴動を起こしたヴェルナー少佐と彼を慕うシュミットが動いていた。
隣の廃屋での、行方不明になっていたフーデンベルグの妻殺人。二つの殺人現場を結ぶ緑の回廊。それらが発見され真実が次第に明らかになって行く。庭師に化けて屋敷に仕えていたヴェルナーの書き付けを信じて、梯子をよじ登って排気口から緑の回廊をのぞき込んだフーデンベルグが、仕掛けられたナチ親衛隊の折れた短剣に接触し、落下した。駆けつけた「正義の会」の一人がとどめをさした。そして三十年前のハンナの死が自殺で、ヴェルナーが窓の外から銃を撃ち助けたことが明らかになる。さらに現れたハルバッハ教授の事故死とその哲学の完全なる崩壊・・・・。
最後にナデイアはハルバッハの死の哲学とその崩壊を理解し、駆との愛に生きようと決心する。
・ナチス・ドイツとソ連は、どちらも近代社会の病弊を超えようとする理念のもとに、大衆的な革命によって成立した国家だ。そしてポーランド分割に見られるように、国際政治では双子のように酷似した行動をとった。(上37P)
・ナポレオンやナポレオンにあこがれて破滅したジュリアン・ソレルやラスコーリニコフが相手では、まず幸福な結婚生活など期待しえないのだから。父親は娘がジョセフィーヌやマチルドやソーニャになることなど望まないものだ(上64P)
・フランス人とは、人間の自由と平等および共和制というフランス国家の理念を共有する人々以外ではありえないのだから(上213P)
・恐怖には怖れる対象と、それを案じて怖れているものと、ふたつの面がある。・・・しかし不安には固有の対象がない。(上276P)
・しかし人間という存在者のみが、一瞬にせよ、存在の闇を光で照らし出す。
・たとえばアイガーを歩いて登った人は、ケーブルカーで登った人よりも、肺や心臓や筋肉を苦しめた分、アイガーからより大きな快楽を引き出したのだ。(上297P)
・他人の死に立ち会うことは可能であるとしても、それを自分のものとして体験することなど誰にもできない。しかし、だから人間は死を怖れる必要などないのだというのは、ソフィスト流の詭弁にすぎません。(上335P)
・最初の近代的な探偵小説が密室殺人の物語としてのみ存在しえた事実を、それらの起源論は意図的に忘却しているのです。(上338P)
・自殺者はその行為によって、最終的な自由に他ならない私の死をえようとしながら、それに失敗する。死んだのはもはや私ではない。(上343P)
・自殺者にとって密室は、自分の特権的な死を封じ込める箱でした。しかし追いつきえない死を追い越してしまう特権的な死は、単なる幻想であり・・・。(上350P)
・勇気ある死、尊厳ある死。そんなものなどありはしない。死が存在しないからだ。人間は死ぬことさえ出来ないと言う真理は、ハンナの存在によって明らかにされている。(上483P)
・死は観念的に所有される存在である。もっと正確に言えば、人にその観念的な所有の欲望を挑発する存在である。(下29P)
・屍体ではない。しかし、死よりも不気味に死んでいる死。(下36P)
・人間を生存本能の奴隷以上のものたらしめるのは、避けることの出来ない死の可能性を凝視し、その運命を先取りし、あえて宿命に忠実であろうとする実存的な意志である。(下99P)
・我々は自分の意図を超えたことにまで責任がある。(下106P)
・戦後に生まれたドイツ人の罪を糾弾するのも間違っている。そのようにするのは、かって抑圧されたという事実を、権利に変えて濫用するものではないですか。(下120P)
・ナチズムには蒙昧なローゼンベルグ哲学に代表されるものと、そして民族の現存在を本来的なものたらしめようとする、ハルバッハ哲学に代表されるものがある。(下213P)
・第一次大戦は、人類がはじめて体験した、恐ろしいほど効率的に組織され機械化された殺戮戦争でした。・・・築かれた兵士の死骸の山は、産業廃棄物の山と変わりありません。そのような大量死の事実に直面して戦慄し、死骸の山が漂わせる不気味さから目を背けようとして捏造されたのが、要するにハルバッハの死の哲学でした。(下37p)
・第一次大戦の経験がもたらした死の無意味性から、何とか意味ある死を救出しようとして、ハルバッハは死の哲学を考案した。それなのに彼の哲学は、さらに大量な無意味な死に帰結したんだ。(下355p)
・子供がガス室で殺されたと知ったとき、彼女の存在の中核は決定的に破壊されたのだ。(下400p)
・収容所システムの犠牲者である昔の恋人には偽装された「自殺」を。そして凡庸な鬼であるフーデンベルグには、三十年にもおよぶ苛烈な復讐の意志を・・・・。その過程で救済されたのは、誰でもないハインリッヒ・ヴェルナー自身なのだ。
(下421p)
・我々の敵は底知れない凡庸さなのだ。(下425p)
・死は平凡なものであり、それ自体には何の意味もない(下428p)
・不安は死から生じるのではない。人間の可能性の中心点が破壊され、奪われる可能性が、人を不安にさせる。でももう不安ではない。私は、もうちゃんと理解できたから、死の可能性の直面して生きることに、人間的な意味なんかありはしない。(下433p)