新潮文庫 昭和ミステリー大全集(上)、双葉社
眼中の悪魔
兄さん、僕は医者になったばかりだが、突然旅に出かける。申し訳ないがそこまで心理的に追いつめられている。そのいきさつはある恐ろしい事件が絡んでいる
四年前医学生だった僕は、酔漢に脅迫されている少女を救った。それがムーラン・ルージュの踊り子珠枝で、再会した僕は彼女に恋してしまった。しかし彼女を浮世絵の先生で富豪の片倉氏に紹介したところ、彼女は異母兄の定吉を救うために、結婚してしまった。しかし、定吉は、結婚後も珠枝にまつわりつき、夫婦に暗い影を投げかけた。
僕は、片倉氏への復讐を考えた。珠枝が目を煩っていたため、偶然定吉と接吻してしまった事を利用して、珠枝との間を疑わせた。策略にはまった片倉氏は、定吉を事故に見せかけて溺死させてしまった。さらに、珠枝が真相を知っているのではないかと疑いはじめ、狂乱の中に珠枝まで刺し殺してしまった。死のまぎわに珠枝は僕の名を呼んだとか。片倉氏は取り調べ中に事故で死んでしまった。僕の復讐は大成功だったのだが・・・。
しかし僕のやったことは、結局は珠枝を、つまりは自分自身を殺しただけだ。僕の心は、焼け落ちて冷たい灰となってしまった。あてはないが、最後の活路を求めて、僕は旅に出る。
主人公が、珠枝が目の病気になっている事を知りながら隠し、犯罪を助長するくだりは小酒井不木の「痴人の復讐」を想起させた。心理描写が素晴らしい。(1948? 26)
気になった言葉
1・・・つまり、人の生命が、それほど尊重すべきものであるか否か、・・・・ほとんどすべてこの夜の人間は有害無益な存在ではあるまいか。
2 そういう有害無益な人間は、この世から消失させた方が善行かもしれないね。
3 病院のベッドの上で、そういう奴を公然と往生させることができる。
4 「鋭器、鈍器、飛道具・・・・いずれもその創痕から、元の凶器の性質、用法、ひいては使用者の体格、性格を推定させることになるでしょう。絞殺、やく殺、これまた首に特有の痕跡が残ります。凍死させるには時間がかかる。人間一匹焼き殺すには火の使用法が大がかりになりすぎる・・・・」
「毒殺はどうだね?。全然証拠の残らないような毒薬はないものかね?」
「それには被害者が知らずに飲めるようなものでなくてはいけませんね。硫酸なんてまずこの点で落第です。青酸、猫イラズ、亜砒酸、メチールなどは世間一般に使われているところから見て・・・・特に最後の二つなどは、この点比較的可能性があるのでしょうが、屍体に証拠を残さないと言うわけには行きません。・・・・」
5 「・・・・・ただひとつ、証拠に残らない殺人は」・・・・・・・
「ごくありふれたことで、しかも過失死と区別のつかない方法ですね。」
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虚像淫楽
晩春の夜、聖ミカエル病院千明医師のもとに、かって彼の元で看護婦として働いていた森弓子が、義理の弟酒井卯助に担がれて運び込まれてきた。昇汞を8グラム飲んだというが理由は言わない。しかも尻の肉の上に蛇のような痣。卯助に亭主房太郎を呼ぶように言うが、翌日彼も同じように昇汞を飲んで死んだことが報告された。
卯助を調べると、やはりミミズ腫れの跡。千明は、昔森がひどい失敗をして一度打ったこと事を思い出したが、看護婦によるとそれ以降失敗をくり返し、結局やめていったのだと言う。どうやら弓子がマゾヒズムで卯助がそれに応じるようになり、さらにマゾヒズムの逃げ口として弓子が卯助を打擲したらしい。昇汞は房太郎が飲ませたらしい。
何があるのだ?しかし卯助の、二人が口論しているとき、弓子が「先生!」と言っていた、との証言から次第に真相が見えてくる。弓子は房太郎を愛する人の代理として夫に下に過ぎない。それを房太郎が知り、毒殺をはかった後、自殺した!それでは弓子が先生と呼んだ愛する人は、一体誰のことなのか。
・いったい、この世のあらゆる夫は、真に妻を愛しているものでしょうか。あらゆる妻は、真に夫を愛しているものでしょうか。それはすべて虚しい仮象ではありますまいか?私は変な思想が胸に浮かんできました。そう、夫の愛しているのは妻の背後の永遠女性であり、妻の愛しているのは夫の背後の天上の男性ではないでしょうか?どれが実像で、どこまでが虚像か、誰が知っているでしょう・・・。(184p)
(1948? 26)
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