講談社ハードカバー
昭和7年、浅草六区で「天満団」と書いの紙切れを持った男が殺された。ある老資産家の援助で大きくなった「天満団」は、満州国独立を唱える団体。金を預かっている井原・藤堂という二人の幹部に特高が目を光らせていた。
おなじ頃、福井の田舎から横浜真金町遊郭「福寿」に幼友達で仲の良い美津子、ふみが売られてきた。「福寿」のお内儀と息子の陽太郎、娘の多代子、不思議に力のあるお民婆さん、お徳ばあさん、番この荘助などが中心に物語が進む。ふみは下働き、美津子は3日目に客を取るようになった。
美津子は故郷の常吉が訪ねてきたり、先輩の牡丹と争うなど苦しい娼妓生活を送っていた。半年ほどたったあるとき、男が美津子の部屋で刺し殺され、美津子はいなくなっていた。ほどなく男の衣装をまとった美津子の青酸カリ服毒死体が発見され、客は天満団有力者井原卓造とわかった。
客を殺して衣服を奪い、遊郭を抜け出そうとした美津子が、追いつめられ自殺したと考えられた。
ふみの箪笥の中から美津子の遺書が出てきたが、それには「ここを逃げ出して海で死にたい。」とあった。ふみは美津子は殺していない、自殺ではなく殺されたと確信する。そう言えばあのとき客(井原)と一緒にいた丸髷はすでに美津子ではなかったような気がしてきた。もみ消そうとするお民婆さん等を振り切って密かに聞いて回る。
店は1週間の営業停止を食らったが、開店後は逆に繁盛した。牡丹が、身請け話を持ちかけた一人で鉄工所を経営している永井から、青酸カリを手に入れていたことが明らかになる。しかしそれはいつの間にかなくなったという。
関東大震災の後、吉原の満喜楼は娼妓を解放したが、その一人で福寿に来た朝顔の話、伊勢佐木町を案内してくれた上海帰りの陽太郎の話、物置での丸髷の発見などを経て、ふみは事件の背景を次第に掴んで行く。そして朝顔が消えた。満州に渡る娼妓の一人が、福寿の風呂場で青酸カリ死した。なんと天満団有力者藤堂滝子で、持っていたはずの7万円がなくなっていた。
さらにふみが来る前に桔梗という娼妓が不振な死を遂げ、お内儀の亭主市太郎も自殺していた事が分かった。お民が自室で酒を飲んでいるうちに死体となった。やはり青酸カリ中毒だった。お民も死んだ桔梗も満喜楼出身者と分かった。荘介がふみを連れてお内儀に自白を迫ると、お内儀は遺書を残して自殺した。それによると
「お内儀夫婦は水飲み百姓だったが、関東大震災のあと、一時的に難を逃れてきた名門満喜楼の夫婦を、遣り手婆のお民のすすめで殺害、奪った金で福寿を始めた。天満団有力者は、真実を知っていて福寿を強請っていたために殺した。」
しかしまだ天満団が持っていた7万の金があるはずだ。おふみの信頼していた荘介が、金をねらって牙をむくが、間一髪、息子の陽太郎に助けられた…・。
少女小説のような短い文章が改行をふんだんに取って書かれている。章タイトルが隠花、妖影、のように2字単語にしているところがしまっていて良い。話の展開が早く、面白く、一気に読ませる魅力がある。当時の世相、横浜の状況等も良く取り入れられている。主人公ふみの生き生きとした言動が物語の暗さを救っている。ただ、なんとなく文章に事実だけをポキポキと並べている感じで、選評中島河太郎氏にあるように「文章にうるおいがない。」感じはする。
・横浜の公娼は、港崎(みよざき)遊廓に始まる。
開港後間もない万延元年、幕府が居留外人用に開いたものである。
場所は埋立地の太田屋新田・現在の横浜公園がその場所だ。江戸吉原を模して作られたこの遊廓は、文久三年版「美那登能波奈横浜奇談」で、こんなふうに描写されている。
『家造りは雇気楼のごとくにして、あたかも龍界にひとしく、六月の燈籠、葉月の俄踊(にわか)、もん日もん日の賑い目をおどろかし、素見(ひやかし)ぞめきは和人、異人打ちまじりて朝夜を分ず。
娼妓道中は精麗をかざりて唐物、和物を好みの取りまじへ、さし飾り着かざりたる粧ひ、天女のあまくだりしかと疑がわざる。
楼上には洋館の花を咲きみだしぬ、座敷には金銀の宝を蒔きちらせり』
いかにも、江戸時代の国際都市・横浜らしい華やかさだ。
が、色街につきもののような大火に何度か襲われ、遊廓はその都度移転した。
吉田新田、高島町、そして明治十五年、現在の南区真金町と永楽町の一部に落ちついた。百軒を超える大世帯だが、東京・吉原のような、何階建てもの大店はない。
たいていが百五十坪から二百坪くらいの敷地を持ち、五人から十人くらいの娼妓を抱えていに。
関東大震災前までは大門があり、街の周囲が高い塀で囲まれていたらしい。
が、震災の時、この塀のために娼妓が逃げ出せず、多勢焼け死んだ。だから今では塀も門もない。
運河(現在は埋めたてられて大通り公園)を渡ったむこうには、私娼街の曙町があり、そこは東京の玉の井同様、迷路のように路地が入り組んでいる。
しかし真金町は、柳並木の整然とした通りで区切られていた。
店も、福寿のような純和風から、本牧の外人向けチャブ屋を真似たホテル風と、それぞれに工大がこらされている。(28p)
(1986、39)
r000423