事件    大岡 昇平

新潮文庫

少年・宏がおさななじみのヨシ子と恋に落ち、ヨシ子が妊娠した。
二人は結婚したかったがバーを経営する姉ハツ子や母が将来のことを考えて反対した。
そんな状況の中で宏とヨシ子が出奔し、まもなくハツ子が沢で刺し殺されているのが見つかった。
関係者の証言と自白から宏が結婚に反対されて犯行に及んだと考えられたが、彼は刺したときの状況を記憶していない。
当初単純とみられていた事件は裁判の進展と共に意外な進展を見せる。
ハツ子がひもの宮内に苦しめられていたこと、その宮内が犯行を目撃していたこと、ハツ子が宏に好意を寄せていたこと等・・・・。
そしてハツ子は半ば自殺であったことが明らかになる。 これだけの話なのだが、裁判にそって最初から最後まで実に細かく書かれ、登場人物のキャラクターが浮かびあがってくる。
そしてその場その場におうじ、作者の日本の裁判制度についてのコメント、批判等がちりばめられており、裁判の過程を知りたい者にたいする絶好の教科書になっている。 裁判制度との関連で、「私にとって」耳新しかったことを含めて、記録しておく。

・自分のもち屋の天井裏の電線に細工して、漏電と見せかけたという自供の内容だったが・・・・・
その老人は・・・・家が焼けて行くところがなくなれば、娘夫婦もおれてくれるだろうと思った・・・(単なる放火)(30p)
・「事前準備」というものがある。公判の1週間ぐらい前、立会検事と弁護人が裁判官室に集まり、主任裁判官との間で、公判の日取り、証拠調べの段取りなどについて、大体の打ち合わせをする。(39p)
・「検察官証拠申請書」には甲乙の2種がある。乙はすなわち俗に自供調書と呼ばれる・・・・(84p)
・裁判官とは裁判という司法作用を行う機関である裁判所を構成する公務員の総称で、最高裁長官、判事、判事補はその職名である。・・・・裁判官、検察官、弁護人が一組であり、判事、検事、弁護士が別の組になる。(104p)
・殺人の罪に対する刑は、現行法の条文は、「死刑又は無期若しくは3年以上の懲役」である。・・・・英米法では、嬰児殺しは別罪となっているし、殺人にも謀殺、故殺、傷害殺人など等級をつけている。(109p)
・裁判官も人間であるから、判決に個人的偏向がある。その傾向を熟知して、その心証形成を導くように弁論するのが、法廷技術の一つなのである。(165p)
・事件の推理作家による安易な小説化(202p)
・供述というものは、実は小説に近いのである。事実を述べると言っても、人はしばしばその経験を小説的に記憶し、そのように物語る。(216p)
・英米法と違って、事件に関連がない限り、(前科等を)法廷へ出さないのは、日本の裁判のいいところである。(221p)
・証人の法廷における心理の変遷は、どうかすると証言をゆがめるおそれはあるが、一般人の正義感を馬鹿にしてはならない。・・・・単純な真実に根ざしていることがある(286p)
・(供述調書は)日本の刑訴法では、証人が法廷で供述を翻した場合も、同じく証拠能力を復活するという、恐るべき規定になっている。(289p)
・証人が供述調書と違ったことを法廷に証言した場合、・・・実は「きかれなかたから、言わなかったまでだ」という逃げ道があった。(293p)
・検察官の冒頭陳述は、証拠調べに入るに先だって、欠かすことのできない手続きであるが・・・・弁護人の冒頭陳述は、・・・・任意に行われる物である。(307p)
・集中審理によれば、結審までの日取りはもちろん、出廷する証人の数も、尋問時間もきっちり枠にはまっていて、動きがとれない。・・・新しい証人を申請するなんて、もっての他のことである。(309p)
・証拠収集能力のない弁護側で申請する証人は、多くは情状証人であって、少しぐらいの誘導があっても、犯罪事実に関しない限り、異議を申し立てて時間をつぶすのは避けられる(353p)
・昭和23年改正の戦後の刑事訴訟法では、旧刑事訴訟法における公判審理の中心であった被告人尋問は廃止されている。・・・・しかしこれらはすべて表向きの話で・・・・・被告人が任意に供述するなら、裁判長はいつでも必要とする事項について供述を求めることができ・・・・(405p)
・少年として判決をうければ、不定期の刑であるから、服役の成績次第で、短い方の期限年の3分の一、つまり八ヶ月の服役で、仮出獄できるのである。(476p)
・被告人は弁護士に真実の七分を言う。検事には五分を言う。 そして法廷に出るのは3分にすぎない。(484p)