日本のハムレットの秘密    齋藤 栄

講談社文庫

悠々たる哉天壌
遼々たる哉古今
五尺の小躯を以って此大をはからむとす。
ホレーショの哲学竟に何等オーソリテイを価するものぞ。
万有の真相は唯だ一言にして悉す
曰く「不可解」
我この恨を懐いて煩悶
終に死を決す。
既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。
始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。

作家である私は、古本屋で発見した塚田春雄著「華厳唯心義講釈」の裏に、藤村の印が押してあることに感激、買い求めてM新聞に島崎藤村と華厳経についてエッセイを書いた。ところがしばらくして、阿南みさをなる女性が訪ねてきて「あの藤村は誤解です。明治36年に有名な「巌頭の感」を残して華厳の滝へ飛び込んだ旧一高生藤村操のことです。私は私生児ですがその孫らしいのです。」と言うのだ。さらに彼女に「操はあの時死ななかったらしいのです。先生、そこのところを調べていただけませんか。」と依頼され、引き受けてしまう。
ちょうど公傷で入院している安東警部に相談すると、いくつかの疑問が浮かびあがった。現場に置かれた傘の問題、文章が出来過ぎている点、どうみても何日も推敲して出来上がった名文だ、ホレーショの哲学とは何か、わざわざ木に彫りつけているのはなぜか、死後、相当経ってから 浮かんだ死体が藤村であったかどうか疑問であるなど。
そもそも藤村は、なぜこんな事をしたのだろうか。藤村は恋愛問題で悩んでいたのではないか。自分をハムレットになぞらえたからにはオフェーリアがいたのではないだろうか。当時ペストが流行していた。何らかの理由でその恋人の死を隠したかったのではないか。
安東が退院し、私は奇術師の昇龍斎道庵に相談に行く。彼は一歩進めて、藤村がその恋人を殺し、死んだように見せかけたのではないか、と推理する。そして暗号好きの彼は、華厳経にヒントを得て、「巌頭の感」を10節に分解、その頭文字を組み合わせて「ごゆ(五湯)はすつ、いわば(岩場)ほれ。」なる文章を浮かび上がらせた。五湯、岩場に対応する場所があるようにも見える場所が塩原温泉で見つかった。また晩年の藤村操を見た、と聞いた男も現れた。しかし藤村がいた旅館は、関東大震災で埋まっており、今では真実は分かりそうもない。
最後は再び阿南みさおを洗ってみるか、という段になって彼女が消えてしまった。男と公金を拐帯して逃亡、そして投身自殺。しかし死体はあがらない。
私は、みさをが現れたのは、あらかじめこの事を予定し、藤村のように世間に自殺と思わせて姿を消す目的だったのではないかと考えた。
推理小説の形態を取ってはいるが、「藤村操投身自殺に関する考察」とでも名づけたいような内容である。関係者も実名を用いているものが多いようだ。それにして「巌頭の感」というのは謎の多い文章である。

塩田丸男「文章毒本」より

哲学的な悩みが藤村少年にまったくなかったとは言わないが、彼を死に追いやったのは失恋だったというのが真相である。
『かわら版明冶史』(遠藤鎮雄著、角川新書)に、次のような記述がある。
〈藤村は、かねがね時の文部大臣菊池大麓の娘松子に思いをよせていたが、彼女が美濃部達吉に嫁したので、失意落胆して死を選んだとみられる。そこでこの真相をもとに、「滑稽新聞」に、「巖頭の感」に模した次の戯文をかかげて、青年賛美の英雄藤村操を大胆に噺罵し、神秘のヴェールをはいだ一代の奇人宮武外骨のような者もでた〉
菊池大麓は、英国に留学し、ケンブリッジ大学で数学と物理を学んだ明治初期の学者で、東京、京都、両帝国大学の総長を務めた。「娘松子」とあるが、美濃部達吉の妻になったのは大麓の長女多美である。なにかの間違いだろう。多美と達吉の問に生れたのが、革新都知事として有名な美濃部亮吉である。多美は藤村操と同年の明冶十九年生れ。亮吉を生んだのは明冶三十七年二月だから今から思うとずいぶん早い結婚だったわけだ。宮武外骨の戯文も、パロディのいいお手本になるだろうからついでに全文を紹介しておこう。「巖頭の感」と読みくらべてみて下さい。
〈嬋々たるかな阿嬢。娼々たるかな松子。堕落の学生をもってこの女をはからんとす。ホレターの色学ついになんらのオイヨロシイーを得たるものぞ。野郎の懸想はただ一言にして悉す。いわく「不及恋」、われこの恨みを懐いて煩悶ついに死を決するに至る。すでに巖頭に立つにさきだって胸中衡気の外あるなし。はじめて知るなる法螺は大いなる売名に一致するを〉.

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