講談社文庫
恋人和子が急病でゆけなくなって、飛騨に旅した康夫と拓也のさえない二人組。ところが康夫が間違えたバッグの中から、女から男に当てた手紙がでてきた。しかしその差出人を訪ねると二人ともすでに死んでいた。
男は17年前、今は柳原英会話学校の理事に収まっている美栄子等と竜飛岬を旅行中ウラナミシジミ蝶を取ろうとして崖から落ちて死亡した。女は柳原英会話学校の生徒だったが、3年前講師のイギリス人デニスと伊豆で心中していた。
二つの事件は美栄子の犯行で、前者は男と関係があったが、当時の柳原英会話学校の息子智孝と結婚したくなったから・・。後者はデニスとの浮気の後、嫌になったから・・・。
しかし今その見栄子は黒い蝶の脅迫状と電話に悩まされていた。
犯人を康夫と考えた美栄子はうまく誘い出して殺すことに成功するが、脅迫状は続く。ついにノイローゼになった彼女は自殺してしまう。
3年後、今は智孝の後妻として康夫の恋人だった和子は英会話学校の理事に収まっていた。
短いきびきびしたセンテンスですべてが貫かれている。余計なことは書かれていない。
竜飛岬殺人はウラナミシジミ蝶を別に持参し、蜘蛛の巣に張り付け、男を細工をした崖縁に誘ったもの。別荘殺人は二つの木にかけたハンモックに男を誘い、眠らせた後、首に縄を巻き付けてつるし、ハンモックをはずしたもので、絞殺でなく、首吊りに見えるところがミソ。
百人一首を英訳させて、それを遺書に使う下りも面白い。康夫殺しは酔わせた上での自動車による轢断だが、内線電話を使ったアリバイを使う。東京から軽井沢にかけると、留守番電話から雰囲気を表す音が流れ、そこに内線から割り込むというもの。
・「ウラナミシジミは謎の蝶だった」講平の話が続いている。
蝶は原則として花によって生きる。花がなければ、生きて行けない。
ところが、花が絶える時期がある。冬だ。花が散り落ちるこの季節を、蝶たちは、どうやって生き抜くのか。
それぞれの“知恵”を見せる。
スジボソヤマキチョウは枯葉にすがりついて、共に落下し、落葉の下で越冬する。キタテハも、食草であるカナムグラの枯れた堆積にもぐり込む。
ヤマキチョウは常緑の茂みに眠る。土にもぐるのもある。ルリタテハなどだロヒメアカタテハなどは、人家の軒先などで暖をとって春を待っ。
その他、セセリチョウ科の多くは幼虫で冬を越し、アゲハチョウ科は蛹で越冬、ヒョウモンチョウ類は卵で春を待つ。
これが「越冬体」である。蝶の生活史の上で重要な鍵となる。
ところが、ウラナミシジミだけは、その「越冬体」がどうしても分らなかった。
ウラナミシジミは、ハワイでは「ビーン・バタフライ」と呼ばれる。ソラマメやフジマメ、アズキなどの豆科を食う。いわゆる害虫とされていた。
「この本の一節を読んでみよう」
講平は、そう云って、一冊の本を取りだした。
日浦勇著『海をわたる蝶』(蒼樹書房)とある。ぺージを繰ってから読み始めた。
「東京あたリでは、春や初夏の採集シーズンには見られない。それが八月頃ふらりと姿をあらわし、菜園の豆類の芽やツボミに卵をうみつける、八月下旬から九月いっぱい、幼虫は豆のツボミや若いサヤにもぐって子房や種子を食い荒らし、つぎつぎにサナギになり、蝶になり、また卵をうむ。こうして十一月まで、暖かい年には十二月の初めまで発生をくりかえす。そして、ひとたび寒さがおとずれると、蝶の影は失せ、幼虫やサナギは死んでしまう。フジマメのツルは、たくさんの卵を花穂にくっつけたまま枯れてしまう。そして翌年の夏、またこつ然として蝶があらわれるのである」
そこまで読んで、講平は本を閉じた。そして、反応を探るように、康雄の顔を見た。
…・この男、やっぱり敬師だ。と康雄は思う。生徒に受けるだろう。それも、出来の悪い生徒にだ。
「どうだ。おもしろいだろう」と、講平は念を押した。
「おもしろいですね。」康雄は苦笑した。どこかで風鈴が鳴っている。
「長い冬の間、ウラナミシジミは、どこでどうしていると思う?」
「さあ。わからないなあ。学者じゃないから」
「いや、それを解明したのは学者じゃない。アマチュアだ。君には科学する心がない。同じアマチュアでも……」
「いいですよ。お説敦は」
「その人は磐瀬太郎という。経済を専攻した人で、最後は中企業の重役だった。もっとも子供の頃から蝶マニアではあったらしいが」
磐瀬がウラナミシジミの謎にヒントを得たのは、一冊の本からであった。英国のフロホークという、これもアマチュアの『英国蝶集成』という書物である。
フロボークは、ウラナミシジミが英国に極めて少いことに目をつけた。一八五九年から一九四〇年までの八十二年間に、三十一匹しか採集されていないのである。しかも、採集されるのは八月九月の二力月間に限られている。
そこで、彼は仮説を立てた。ウラナミシジミは英国に土着せず、というのである。ではどこから来るか。スペインあたりからだろう。ドーバー海峡を飛び越えて来るのだ、と彼は考えたのだ。「英国に土着していないのなら」と、磐瀬の考えは発展した。「東京にも土着せず、どこかから移ってくるのではないか」昭和十七年頃である。専門雑誌に発表した。
戦争が終った。
彼は病床に伏せった。湘南の静養先から、ある夏の一日、東京の自宅へ帰った。庭先にフジマメの花があった。留守番の老人がまいたのである、フジマメの上に小さなウラナミシジミが羽をはばたかせているのを見た。
磐瀬は感動した。
以来、彼は鎌倉や茅ケ崎の静養先でフジマメをまいた。毎年、八十八夜の頃にである。七月に花が咲く。小さな蝶は来た。
彼は確信を得た。ウラナミシジミは東京に土着せず、どこか南からやって来る。この確信は、しかし、さらに多くの興味深い謎を秘めていた。すなわち−−。
どこか南、とは具体的にどこか。その南で冬をどうやって過しているのか。北へ、どうやって移動して行くのか。その北とは、一体どの辺までなのか。
しかし磐瀬は病床にあった。動くことができない。そこで彼は、運日葉書を書いた。全国の蝶の愛好家、特に少年の研究家に対してであった。葉書の量は数百枚に達するだろう、と彼自身書いている。「機関銃のように、電報より速く」とマニア達は噂した。
十余年にわたる彼の根気と努力は、昭和三十年になって、実った。千葉県保田町の鈴木晃という高校生から便りが届いた。彼は磐瀬の葉書に刺激され、自転車で野外調査を続けていた。南房総、保田付近は気候温暖の上、豆の促成栽培が盛んである。年中、花が絶えないが、ここでは、ウラナミシジミが冬も死に絶えず、幼虫や蠕の状態で越冬している、というのである。そして春を迎えると、アズキやソラマメの畑で、二世三世と世代を交代しつつ、北へ広がる力を養うというのだ。
ウラナミシジミには、冬の休眠状態がない、ということか分った。磐瀬は勇気づけられた。彼は、健康も回復し、専門誌に「さまよえるウラナミシジミ…その生態を皆で調ぺよう」という記事を書いた。同時に、彼は東北や北海道のマニアに、フジマメの種子を大量に送った。
当時。東北でのウラナミシジミの採集例は三例しか報告されていなかった。北海道での記録は皆無であった。
磐瀬が北国の愛好家達に種子を送ったのは、ウラナミシジミを誘致しようという目的ではなかった。この蝶が、もし北国に飛来しているものなら、必ずフジマメに立ち寄るだろうと考えたのだ。確認がねらいだった。
それが的中した。
同年九月、函館の猪子竜夫が五稜郭にまいたフジマメに、彼女は飛来したのである。その上、卵まで産んだ。
北海道から同様の報告が相次いだ。秋まで十八匹が発見されたのである。
…・いい話だ、と康雄は思う。
彼の頭の中に、蝶が飛んでいる。いま、図鑑で見たばかりの、小さな貧弱な蝶だ。どういうわけか、二羽。強い風に抗い、懸命に羽を動かす。眼下に、みはるかす津軽海峡。白い波頭。二羽の蝶が、接近し、離れ、上になり下になりして、海を渡る。波の音が聞こえる。潮の香がする。
「千葉から北海道までねえ。こんな、小さな蝶が−・…」
康雄は感心した。
「千キロある」
「豆をたずねて千キロ、か」
(77p−81p)