ちくま新書
同時テロ直後の記者会見でブッシュ大統領は「この十字軍(クルセード)、このテロ行為に対する戦争は、時間をとることになるだろう。」と演説し物議をかもした。思わずこの語がでたのは反イスラムでないにしても、そこ肯定的ニュアンスを感じ、さらにいうと道徳的で神聖な戦い、と感じていたからであろう。
十字軍にはいかにも西洋的、欧米的な特性がこびりついている。その特性は何よりもキリスト教的武力行使。つまり聖性と暴力の結合にある。西洋にはこの十字軍をささえた「聖戦」と呼ばれる宗教的戦争論と、正しい戦争「正戦」とよばれる世俗的戦争論がある。二つは絡み合う形で西洋の戦争観とその思想史を形成してきた。本書では前者についてその淵源から現代に受け継がれている状況までを論述している。
十字軍は、一般駅には11世紀後半に始まり,14世紀末のアッコンの陥落にいたるまでにパレスチナ地方に派遣された西洋の軍事行動と理解されるが、実際は312年にあのローマ帝国でキリスト教を国教と首都をビザンテインに移したコンスタンテイヌス帝が、当時イタリアを支配していたマクセンテイウス帝をくだした戦いに始まる。帝は神に祈り、救世主の印をかかげ、そのおかげとして勝利した。やがてフランク国王とローマ教皇の関係が深まり、聖戦を繰り返し、カール大帝の登場を迎える。多数のザクセン人を殺害し、死刑の威嚇によって改宗を強要した。神聖ローマ帝国の創始者オットー大帝もまた世俗的権力者であるだけでなく優れて聖的存在であった。大帝はローマ教皇とそれぞれの権利等に関し、協約を結んだが、このときは皇帝の力が絶対的に強かった。
しかし10世紀前後、フランスでは王国の秩序が解体し、世の中が乱れた。この間に人間を祈る人(教会)、戦う人(騎士)、耕す人(農民)に分ける思想が普及し、国王の神権的性格が否定され、聖職者の世俗的性格を拒絶することによって教会の勢力が相対的に強くなった。さらにこれを決定づけたのがローマ教皇グレゴリウス7世の引き起こした聖職叙任権闘争であった。1096年、不浄な異教徒たちによって占有されている聖地を奪還するために、ウルバヌス2世が第1回十字軍を呼びかけた。ここでは浄化の思想、神の期待への応答とい側面が大きくなっている。十字架の印をまとって戦うことを許し、贖罪を期待する参加者には教皇が罪の赦免である贖宥を与える、また残された家庭の保護など特典を与えるなどして多くの参加者を集めることに成功した。以後狭義の十字軍は7回派遣される。
しかしローマ教皇の後押しによる十字軍はこの後も次々と派遣されている。
12世紀にはスラブ人を相手にヴェンデ十字軍、続いてプロイセン十字軍が派遣された。13世紀中庸にグレゴリウス9世等は神聖ローマ帝国フリードリッヒ2世に、ハンガリーを守るためにモンゴル軍に、派遣された。時代が下って16世紀後半にもエリザベス1世に対し十字軍が派遣されたが、あの無敵艦隊は敗れてしまった。さらに台頭してきたトルコとの戦いでもしばしば十字軍が派遣された。
しかし16世紀にエラスムスは、コーランのうちにキリスト教的要素があることを認め、トルコ人と戦うのではなく改宗を勧めるべきだと主張した。またルターは「ローマは今日、トルコよりももっとたちが悪い、ローマ教皇は反キリスト的」と激しく糾弾し、十字軍を否定した。この結果ローマ教皇の呼びかけと贖宥状の発布という形式的要件を備えた十字軍はほぼ終わりをつげた。
しかし「十字軍の思想」は、カルヴァン等の伝道を通してイギリスやアメリカで継続された。イギリスではクロムウエルがそうで、彼は「神に仕える偉大な特例があり、それは通常のモラルの作用を免除されると考えていたようだ。また1620年にメイフラワー号でアメリカに行き着いたピルグリアム・ファーザーズは、神の栄光のため、キリスト教の信仰を普及するためおよび祖国の栄光を高めるためにヴァージニアに植民地を建設した。以後インデイアンとの戦いで十字軍的思想は十分に利用された。
ヨーロッパで十字軍思想は18世紀には啓蒙主義思想によって否定されたが、19世紀にはロマン化された。トルコは最早脅威ではなくなり、ヨーロッパは東洋に対して、優越的高見から余裕を持って接する事ができるようになった。そして「アジアには隷属の精神が支配している。」などいとし、「西洋人のオリエント制服が征服ではなく解放なのだ」とする論理がまかり通った。またアメリカでは第一次大戦時に「祖国のためというより神のために戦っている」との説教まで続けられた。
著者は十字軍思想が現在のアメリカにどこまで生きているかについては深く言及していない。しかし歴史的経過を見ると根の深い、西欧人に心に時代と共に形を変えて住み続けている思想である事が分かる。
070404