岩波文庫
谷中感応寺の五重塔は当初棟梁川越の源太が請け負うと見られていた。ところが仕事が丁寧だが、遅く、付き合いが悪く仲間内からはのっそりと呼ばれていた一徹者大工十兵衛が「私にやらせてください。」と直接住職朗園上人に願い出てきた。聞けば五十分の一のミニチュアまで作る打ち込みよう、しかし源太を今更断るわけにも行かず、上人は二人を呼び寄せて「汝達の相談の纏まりたる通りに取り上げてやるべければ、よく家に帰って相談してこよ。」と言い渡す。
源太はいろいろ考えた末、十兵衛に「共同でやろう。」と持ちかける。ところがこれを十兵衛は断ってしまう。そして「もうこの仕事はあきらめました。」等という。とうとう源太は上人に「この仕事は十兵衛に。」と申し入れると、十兵衛も同じことを申し入れて来たという。結局上人の裁可で十兵衛がやることになる。十兵衛は源太の用意した助言の為に図集も断り、一心不乱に専念する。思い違いをした清吉が建築現場に乗り付け、怪我をさせるが医者に行くこともなく監督をする熱心さ。
しかしおかげで立派な五重塔ができあがった。完成披露のその晩何十年ぶりかの大嵐が江戸をおそった。皆右往左往したが十兵衛は動かない。人々が驚いた事に損傷がなかった。最後に上人が源太と十兵衛を仲直りさせる。
源太、十兵衛それぞれの心中の闘いの書きぶりが見事である。西洋合理主義に対峙する日本的な集団の関係に感銘した。義理人情の世界と自分自身の欲望の葛藤で、その解決の仕方は全く西洋では見られない独特のものを持っている。
この作品は明治二十四年新聞「國會」に掲載された。二葉亭四迷の浮雲が明治二十一年、樋口一葉のにごりえ・たけくらべが明治二十六年ころ発表されている。切れ目の少ない日本的なニュアンスに富んだ口語文である。(中村真一郎「文章読本」参照)三十五の小さい章立てだが、章ごとに視点を変えている。その心の描写は見事で、各人の立場や気持ちが非常に良く伝えられる。骨太のきっちりした文章で、読んでいて気持ちがいい。
東京都谷中霊園の中央道路脇に、以前天王寺五重塔があった。惜しくも昭和三十二年、心中放火で焼失したが、その近くに住んだ幸田露伴が、1792年(寛政四年)の五重塔再建にまつわる小説「五重塔」を書いて有名であった。(「下谷・浅草の歴史散歩」台東区芸術・歴史協会、台東区立下町風俗資料館)
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