新潮文庫
舞姫
ベルリンに官費で留学していた鴎外は、ウンテル・リンデンで貧しい舞姫エリスを助け、やがて彼女と暮らすようになる。このことで官費支給を打ち切られ、新聞に記事を書くなどしてその日暮らしをするようになる。一方エリスは妊娠する。こんな時天方伯爵に語学の能力を認められるが、友人の相沢はエリスとの関係を清算せよ、と忠告。決心つかぬままロシアに伯爵に随行して行き、大いに才能を認められて帰国する。しかし日本に帰らねばならぬ日がやって来る。
当時、近代的な内容と斬新な雅文体との組み合わせの故に、大変な評判を取った作品とのことである。明治23年、まだ日本は天才主義時代で、富国強兵策の元、エリートが絶対的に優遇された時代である。そのせいか鴎外は自分自身を特別な者として見なしているようだ。とは言え、品格も物語性も高く素晴らしい作品。(1890
28)
うたかたの記
ミュンヘンに到着した画家巨勢は酒場でむかし助けた少女の話をしたが、それは酒場の女主人で、やがて巨勢のモデルを勤めるようになる。彼女の母親は、かって若くして皇位についたが、後に厭世的傾向を深め、精神を病み、スタルンベルヒ湖に移されたルードウイッヒ2世に愛された。巨勢と少女は、スタインベルヒ湖に赴くが、ルードウイッヒ2世が侍医グッデンと共に溺死する現場を発見、少女は気を失って水に落ちてしまう。
舞姫と同様、ドイツを舞台にした感傷的な雅文体の作品だが、やや面白味に欠けるように思う。(1890 28)
鶏
石田小介は、少佐参謀となって小倉に赴任し、借家に住み、鶏を飼うようになる。この鶏を軸に別当や下男・下女とのやりとりをやや散文的にまとめたもの。最後に米も野菜も卵もすべて別当の虎吉がごまかしている、と知って、いきな処断をする石田の態度がほほえましい。(1909
47)
かのように
外国に学んだ秀麿は日本に戻って左翼にかぶれるでもなく、かといって旧弊な父に協調するでもなく読書に明け暮れ高等遊民的生活を送っている。そして友人綾小路と、神話は事実ではないが、政治の世界でのぞく訳には行かない、歴史は事実を追求するものだが、それだけだと危険思想に行き着く。あらゆる学問の根本を調べると、「かのように」を土台として成り立っていることを否定出来ない、などと論じる。 幾何学では線と点があるかのように考えなければいけない、人間はあくまで義務があるかのようにふるまわなければならない、等々。
解釈の難しい作品だが、少なくとも「山県公から危険思想対策、すなわち思想善導の方法を求められ、それに応じて」書いただけの作品では無いように思う。(1911
50)
阿部一族
島原一揆の天草四郎討伐で功績のあった肥後の国領主細川忠利が亡くなった。多くの臣下が殉死して果てたが、早くから忠利の側に仕え、千百石余の身分になっていた阿部弥一右衛門にはどういう訳か殉死のお許しがでなかった。陰口をたたかれた弥一右衛門は、朋輩の言うとおり「瓢箪に油を塗って」腹を切ってしまう。細川家の家督は光尚が継ぐが、阿部一族の家督は兄弟当分というおかしなもの、今度は長男権兵衛が一週忌にあたり、もとどりを切って供えるという暴挙に出て、打ち首となった。鳩首協議の結果一族は屋敷に立てこもったが、多勢の討手に適うべくもなく全員が討ち死にする。
この小説の意図というのは難しい。高橋義孝の解説には「自己主張を主題としている。問題は封建制度下の救済だと言って差し支えあるまい。そしてその人間性はこのような悲劇的な形でしか救済されざるを得なかったのである。」としている。私は人間の条理を越えた意地とそのつっぱりによる崩壊を感じた。何ももとどりを切る必要も無かったし、負けると分かって立てこもる必要もなかった、しかしだだをこねるようにつっぱったところに、人間の論理では割り切れぬ悲しさを感じ、作者はそのやりきれなさを描きたかったのではないか、という気がした。
・人は誰が上にも好きな人、厭な人というものがある。そしてなぜ好きだか、厭だとか穿鑿してみると、どうかすると捕捉する程の拠りどころがない。(150p)
(1913.1 51)
堺事件
明治元年、無政府状態の大阪にあって、堺を土佐藩が守っていた。そこに官許を得ていないフランス兵が上陸した。船に戻らぬ水兵を鳶頭が鳶口で驚かしたところ、船にいた水兵が突然短銃で一斉射撃をした。これを見て兵卒は七十余丁の銃口を並べ、一斉射撃し、十三人の死者を出した。後日フランスからフランス人を殺害した兵卒二十人を死刑に処せ、など三項目の要求が来た。そこで七十人あまりの中から銃を撃ったか撃たぬか、籤で当たったか当たらぬかで二十人を選び出した。抗議で士として扱い、切腹と言うことになった。妙国寺でフランス公使臨席の元、切腹が始まったが、十二人目になるところで公使が随行員と共に退席してしまった。あまりのすごさに助命嘆願しようというのである。結局残りの9人の切腹は取りやめになった。土佐藩宝樹院には十一基の石碑と九つの大瓶がある。前者を「御残念様」、後者を「生運様」として今も参詣する者が後を絶たない。
混乱期におきた事件で非常に面白いと思った。しかし190ページに「皇国の士気をあらわすように」など皇国という言葉を使っているが、もうこの時点でその意識があったのだろうか。版籍奉還以前だから江戸時代の風習が残っているのは分かる。(1914
52)
余興
同郷人懇親会で、面白くもない浪花節を聞かされた鴎外は、己の立場を確立することの重要性を認識する。(1915.53)
じいさんばあさん
麻布竜土町松平家屋敷内に宮重久右衛門が隠居所を作り、上品なじいさんばあさんが越してきた。二人の仲の良いことは他人が驚くほど。そのばあさんのるんが永年遠国にいる夫の為に貞節を尽くした褒美として銀十枚を賜った。
るんの亭主は石川阿波守のもとにいた美濃部伊織だった。彼は、ある時借金をして刀を買い、関係者に披露したところ、金を貸した相番の下島甚右衛門がやってきた。ささいなことで言い合いになり切りつけた。これが元で下島は亡くなり、甚右衛門は越前国丸山に流された。るんは奉公先を替えながら夫の帰りを待った。そして37年後夫が赦免になり帰ってきたというのである。(1915
53)
寒山拾得
唐の貞観のころ、旅の僧は、台州の主簿に着任することになった呂の頭痛を、きれいな水に気を向けさせ、吹き付けることによってなおした。呂は、その僧に薦められ国清寺の寒山・拾徳を訪れる。彼らは単なる乞食坊主に見えるが、一方で普賢菩薩、文殊菩薩であるという。(1916
54)
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