イラクのフセイン政権を倒すために、アメリカが出兵したことは、間違いではなかったか、さらに日本が協力して自衛隊を派遣するのはおかしい、という人がいる。しかし似たようなケースに見えるアフガニスタンでは、あの悪者タリバーンが排除され、民主化と復興にむけて歩み始めたではないか、という人もいる。その辺をもう少し考えてみたくて読む。著者は1942年生まれ、東京外国語大学卒業、NHKに入社し、活躍している記者である。
アフガニスタンは、面積65万平方キロと広いが、内陸国で山国。一時期を除いてほとんど雨が降らず、年間降雨量は日本の10分の1程度、多民族国家で人口は2000数百万というがはっきりしない。98%がイスラム教徒で、そのうち85%がスンニ派である。
18世紀初頭まで西のサファヴィー王朝、東のムガール王朝、北のアストラハン王朝の支配下にあった。三王朝の支配力が弱まった頃、ギルザイ族王朝を倒して、パシュトウーン人アフムド・シャー等がドウッラーニー王朝を開いた。しかし内紛によって勢力が衰え、ドースト・ムハンマドが1826年までに全土の支配権を確立しムハンマド朝を開いた。
ロシアの進出を恐れて、英国は1839年にインド人傭兵等を用いて第一次アフガン戦争を起こすが、敗退してしまう。その後1853年クリミヤ戦争、1858年東インド会社の解散、などで両国は攻撃を手控え、アフガニスタンには、一時的平和が訪れた。クリミヤ戦争後のロシアの動きを見て英国は1878年第二次アフガン戦争を仕掛けるが、またしても撤退を余儀なくされる。しかし英国は、イギリスより国王の擁立に成功する。次第に民族主義的傾向が強まり、第一次大戦が終了した1919年アマヌッラー王は、逆にインドを支配するイギリスを攻めるが敗れる。しかし英国もインドへの対応に一杯で、結局現在のパキスタンとの国境線デユランドラインがほぼ確定する。
アマヌッラー王は、立憲君主制国家としての近代化を進めるが1929年に失脚。その後、ナデイル・シャー、ザヒル・シャー王時代が続く。政治的には中立政策をとり、パキスタンと国境を争い、輸送ルートの関係でソ連との関係が強化された。1973年にソ連で訓練を受けた若手将校が反乱を起こし、共和制に移行し、ダウトが大統領になった。その後タラキ、アミン等が政権につくが安定せず、ついに1979年ソ連軍によるアフガン侵攻が始まる。西側は、ホメイニ政権による米国大使館占拠事件などでゆれており、見過ごす形となった。
ソ連はカルマル政権を押したて、支配を継続しようとした。しかし恐怖政治は、反政府軍を強化する形となり、内戦状態が続いた。戦局がゲリラ側有利に展開する中、ソ連はブレジネフ政権からゴルバチョフ政権になり、ペレストロイカ時代となった。結局ソ連軍は、1986年に撤退した。支援をうけていたナジブッラー政権崩壊は近いと考えらたが、ソ連の残した武器、援助などで92年まで生き延びた。翌年ゲリラ8派が和平協定に調印し、平和が訪れるかに見えたが、内戦は止まなかった。
タリバーンは突如として現れた。パキスタンの新学校で教育をうけたパシュトウーン人若者グループである。この裏にはパキスタン政府の秘密工作があった。カンダハールを押さえた後、96年にカブールを陥落させ、その恐怖政治が始まった。97年それまでタリバーンを擁護してきたアメリカが非難を始めた。女性の地位向上を問題にしたグループの非難や、トルクメニスタンの石油問題解決、などの理由である。タリバーンには、サウジアラビアも援助を続けており、その流れの中でウサマ・ビンラッデイーンも潜入した。そして彼によると見られるアフリカの米大使館連続爆破事件が起こった。パキスタンはムシャラフ政権が誕生し、タリバーンとの癒着を改めアメリカと共同歩調を取り出す。
そして2001年の9・11テロ、米英軍の軍事作戦、タリバーン政権崩壊、12月にカルザイ氏を議長とする暫定政権が発足した。2002年に伝統的なロヤ・ジルガが開催され、同氏が大統領に就任した。こうしてみるとイギリス、ロシア、そしてソ連、さらにパキスタン、米国など大国の都合により、同国はいいように振り回されてきたように見える。しかしようやくカルザイ政権誕生を受けてアフガニスタンは今復興途上にあるといえる。その点だけ評価すれば、米英軍の軍事作戦は正しかった、ということになるのだが・・・・。
060814