「あなたは安全をとりすぎるのよ。出発までまだ一時間もあるじゃない。」
そんなサユリのぼやきを聞きながして、コナン、残りのスペインペセタをかき集めて、車内で食べるサンドイッチやジュースを買いに行く。
八時四五分定刻に、列車はサンツ駅を出て海岸線をフランスに向かう。
国境で一応のパスポートコントロールがあった。フランス側に入ると、豊かな田園地帯が広がる。「スペインの荒涼とは違う。」とサユリ感心。
一三時二〇分モンペリエ着。
ホテルは、駅から歩いてすぐのところにあるホリデイ・イン。
すばらしく広く明るい部屋で、空調が利いている。花模様のカバーのついた二つのベッドも気持ちよさそうだ。
「ここは静かそう。」とマドリッド、バルセロナと六日間も騒音に悩まされたサユリはいたく満足した様子。
さっそくフロントで帰りの便をリコンファームしてもらい、街に出て銀行で両替。一フラン二五円程度、円も安くなったものとがっくり。
少し行ったところに町の中心らしいコメデイ広場があった。喫茶店が椅子をならべ、噴水のまわりで若者が語り合い、たくさんの人が行き来している。その右むこうに公園、それに隣接して、ファーブル美術館があった。
古い絵の多い美術館だが、いくつか面白い作品がある。
「クールベさん、こんにちは」というのは、もちろんクールベの作品だが、明るい色調でキャンバスをしょったクールベが村の道で二人の男に出会ったところを描いている。解説によれば「写実主義」で古臭い一九世紀官展派への反抗を示す、とある。

「水浴する女」というのも同じクールベの作だが、森の中を一〇〇キロはあろうかという肉付きのいい女が、腰布一つで、別の女を突き飛ばすようにして去ってゆく、その後ろ姿が描かれている。
ほかに案内書では「アトリエのミケランジェロ」を推薦してあったが、コナンが面白いと感心したのは「夫帰る」という題の作品。
縦長のキャンパスに、妻の不倫中に帰った夫が、間男を撃ち殺し、いままさに奥方の首をしめようとしている。
お茶を飲んだ後、駅から見て左にある凱旋門の方に歩いて見た。その向こうが公園になっており、一番先に集水場が立ち、その先に一八世紀に建てられた八百メートルにわたる水道橋が立っている。
公園の木陰のベンチにすわっておしゃべり。人影はほとんどない。スペインからフランスに出て急に気温が下がった。今は二五度もないだろう。穏やかな風が気持ちよく、少し暗くなってきた
「ねえ、フランスのアベックは公園に行くと夜の日比谷公園のアベックみたいなことをするのかしら。」
「さあ・・・・。そんなに集まるのかなあ。」
「覗きはいるのかしら。」
「君、なにかしたいの・・・・。」
「そうじゃないけど・・・。聞いてみただけよ。」
帰る途中、ようやくレストランが開きだした。そのうちの一件により、ワインとムニューを頼む。色の浅黒い元気な女の子が応対してくれた。
隣の席に老女と娘らしい若い女性。若い女性は老女に「ここで食べてて頂戴ね。私、ちょっと用事があるのよ。終わったら電話してね。」そんな風に言っている様子。
昔、モンマルトルの安いレストランで見た老女を思い出した。彼女は、一人で西日の照らす窓を眺めながら、さびしげに、赤いハウスワインを水で薄めて飲んでいた。
こうやって旅をしているだけでは、老人問題などその地域の持つ影の部分はなかなかわからない。

「小説「巌窟王」で、モンテクリスト伯が閉じ込められていたというイフ島は、マルセイユ観光の目玉である。」とガイドブックには書いてある。
しかし普通行けるのは、その向こうにあるラトノー島である。イフ島は島が小さく、切り立っており、よほど波が静かでないと、船を出さないらしい。
ラトノー島はポメグ島と近く、二つの島は人工の海中道でつながれている。イフ島も含めてこれらの島をフリオル諸島と呼んでいる。
九月五日土曜日、快晴、気温は二五度くらい、一一時半頃、モンペリエから列車でマルセイユについたコナンとサユリは、プラダ通りにあるホリデイインにチェックインした後、徒歩で、船の出る旧港のベルジュ海岸に向かった。
三〇分くらいして、市のメインストリートカヌビエール通りにぶつかり、左折。港に出て二時発のラトノー島行き(看板には単にフリオル島行きと書いてある。)にのった。
客は観光客が主体だが、地元の人も多いようで、釣り道具を持っているもの、一家で犬まで連れてきているものなど多様。客は五〇人かそこらか、多くはデッキに出ているが、サユリの希望でキャビンの中にとどまった。
サンジャン要塞、サンニコラ要塞を左右にみて旧港をでると外海、波が急にあらくなった。「きゃー」というきょう声と共に、デッキの何人かがキャビンに入ってきた。水しぶきがすごいのである。
古いお城が、そのまま海の上に浮いたようなイフ島を横に見て、二〇分ほどでラトノー島に着く。岩肌の露出した島は、緑が少なく、太陽にぎらぎらと照りかえっている。
桟橋の先に、球形のグローブを持つ外灯がずらりと並ぶ遊歩道が続く。夜ともなれば美しいに違いない。
遊歩道そいに海産物を食わせるレストランやアイスクリーム屋が七、八件並び、その裏には、島の住人か滞在者用かの黄色の四角いアパートメントハウスが立ち並んでいる。
「こんなところに住んでいたら仕事をしたくなくなるわね。」
「ねえ、お昼ごはん、まだよね。」
「海がこんなに青いなんて来てみないとわからないわね。」
などと、乗り物に弱く、船の中では元気のなかったサユリは、急にゴキゲン。
通りの一番奥にある小さなレストランの白いテーブルに座った。アイオリという料理と海草サラダをビールと一緒に注文した。
のそのそと熊みたいに出てきた親父が「どっちがどっちを食べるんだ。」と聞くから、「一緒にほしい、分けるんだ。」とコナン、ブロークン・フレンチで説明。英語は得意だが、フランス語はカラキシのサユリは感心した顔で眺めている。
アイオリは鱈、巻き貝、ムール貝、野菜類などと一緒に自家製アイオリが大きな皿に盛られている。サラダはムール貝とまめ、トマト、レタスなどをオリーブオイル、ビネガーと混ぜ合わせたもの、量は満点でお腹いっぱいになってしまった。
海風が気持ちよい。
「今すぐ戻ると、船に酔ってしまいそう。」とサユリが言うので、一つ後の船で帰ることにし、海中道をぶらぶらと散歩する。埠頭の桟橋や海中道などに無数のヨットが繋留されている。
反対側には岩場越しに向こうの海が広がって見える。岩場におりると手前からは見えないから、風景から人影が消える。
「のんびりするわあ。」「このままずっといられないかしら。」などと繰り返しながら、二人は、写真を取り捲った。
早めに埠頭で待っていると、小さな親子連れにあった。混血がかった三歳くらいの男の子が、サユリの日傘を見つけると、上から軽くたたいた。にらむと首を竦めて向こうに消えた。
変わりに妹らしい女の子がやってきた。彼女は、日傘を興味深そうに覗いていたが、そのうち傘をたたむ紐を引っ張りはじめた。乳母車に赤ちゃんを乗せたお母さんが、飛んでくる。のどかな午後である。
四時半の船がついた。まだまだこれからというのか、船はどっと客をはきだし、かわりに桟橋の待ち客を飲み込んだ。

マルセイユ駅を降りると、町の向こう、青い空を背景に金色のマリアが見える。この町の目玉の一つ、ノートルダム・ド・ラ・ギャルド寺院のてっぺんにある。
フリオル諸島見物を終え、ベルジュ海岸に戻ってすぐに向かう。
旧港の東側の通りに垂直に登って行けば良いことは分かっているのだが、道が入り組んでいるために迷ってしまた。出会った若い女性に聞いてみると、日本人で、名古屋からきたという。
「こちらにお住まいですか。」
「ええ、下宿しています。」
「学生さんですか。」
「ええ、まあ、そんな物です。時々語学を勉強しています。」
「そうですか、優雅で良いですね。」
「そうでもないんですよ。両替されました?。一フランいくらくらいです。この前来た人なんか、東京の銀行で変えたら二七円についたとか言ってました。」
「日本の銀行は利ざやを取りすぎるんですよ。私はこちらの銀行で二五円くらいで換えましたよ。」
「東京は台風で大変だったんでしょう。」
「台風が襲う直前に、日本を出てきました。」
「こちらの新聞に大水が出たとか書いてありました。那須ってのは東京なんでしょう。」
「いや、あれは大分離れている・・・。」
女の子に教えられた道を行ったが、彼女もそんなに地理を知らなかったらしく、大分遠回りをし、裏門に続く道を登ることになってしまった。最後の急な階段を登りながらサユリ
「やっぱり、旅は体力だわ。六〇過ぎたらこの階段は登れないわ。」
と弱音。「なに、その時はタクシーで来ればいいさ。」と言うと、「それをさっさと言いなさい。」という顔をする。
近づくに連れ、あの金色のマリアが大きくなってきて、こちらに倒れかかってくるような感じがする。頂上は、今日も観光客、寺院の中はミサを行う信徒で混んでいる。
ところでここは寺院も立派だが、ここから見る景色が素晴らしい。特にちょうど今時、夕日にきらきらと光る海の中に浮かぶフリオル諸島の景観は絶品。ここまで登ってきたかいがあるというものだ。
サユリもご機嫌で景色にみとれ、終わると絵はがきなどを買い込んでいた。
しばらくして今度は表の道を通って下におりた。軽くパン屋でボガデイージャを食べたのち、サユリの希望で歩いて、ホテルに向かう。
「ねえ、どうしてそんなに早く歩くの。」
「もう後はホテルに戻るだけと、目標がきまると元気が出るんだ。」
「会社人間!」
ホテル近くなって「ねえ、ビールがほしくない?」
閉店まぎわのスーパーマーケット「プリズモ」によった。この国ではビールは脇役らしく、隅の方で野積みにされ、棚を占領しているのはワイン、冷蔵庫の中で冷えているのはコカコーラだけだった。
「じゃあ、ワインにするか。」
「栓抜きがないわ。」
やれやれ、不便な物だ。結局ホテルでの飲み物は水になってしまった。
コナンは、五年ほど前、亡くなった先妻のミホコと南フランスを旅した。パリからニースに飛び、ニース、カンヌ、マルセイユ、アヴィニオン、リヨンととまりながら、列車で旅をし、最後はTGVにのってパリに戻った。
マルセイユでは、駅前からバスに乗ってエクスアンプロバンスに行った。大した物がある都市ではないが、左右を背の高いプラタナスか何かの並木で囲まれたミラボー通りがなんともいえず趣があり、素晴らしかった。
今度は、サユリに見せてやろう、あの通りの喫茶店でゆっくりとお茶を飲もうと考えた。マルセイユに下りるなり、バスターミナルで時刻表をもらっておいた。
ところが昨日の歩きすぎがたたったのか、あるいはスペインの猛暑からフランスに脱出して調子が狂ったのか、サユリが調子が悪い。
「とてもエクスには行けないわ。悪いけれど、私は寝ているから、あなた一人で出かけてきて。帰りにパンでも買ってきて頂戴。」
「それじゃあ、仕方がないな。僕はもうここは三度目か四度目だからたいして見る物もない。地下鉄の様子を調べて、何か買って帰るから、横になっていなさい。夜、調子が良かったら楽しみにしていたブイヤベースを食べに行こう。」
マルセイユの地下鉄で買う通常の切符は、ソロというタイプ。これはバスも含めて一時間乗り放題、というもの。数人で一枚の切符を買い、改札口越に後ろの者に渡すヤカラがいるらしく、切符の裏にはそういう事は法律で禁止されている、と脅してある。
ベルジュ埠頭にゆくと、魚の朝市をやっていた。大型カレイ、大型伊勢エビ、大型コチ、五○センチくらいのメルルーサ、マグロ、鯖、イカ、ホヤみたいな貝で中の実が黄色い物、大型の鰻か太刀魚みたいな魚が、売られている。地元のオバサンたちが、沢山買いに来ている。
地下鉄でカステージャ広場まで戻り、昼食の材料を仕入れようとするが、今日はあいにくの日曜日。プリズニックまで閉まっている。わずかに開いていた店でジュース、パン、林檎パイ、揚げ物等を買って帰る。
しかし、サユリは、風邪が腹にきているらしく「胃が受け付けないの。」と元気がない。アスピリンをホテルに頼んで持ってこさせ、飲ませる。
「あなた、出かけなくてよいの。」の声を後目に、コナンも、午後は日本から持参してきた推理小説を読んで過ごした。
普通、レストランは、七時過ぎから開く。完全に回復した訳ではないが、そうマルセイユに来るチャンスもないだろう、と無理を承知で、コナン、サユリを誘い、地下鉄で旧港にブイヤベースを食べに行く。
海岸から一本入った通りの角に、四件の店が赤いテントを張り出して、互いに観光客をねらっている。
案内書が「ドーラド」という店を推薦してあったので、そこに入る。
「夜風に当たりたくない。」というので、わざわざ店に頼んで店内の席に着く。
バジルを利かせたムール貝のたこ焼き風とブイヤベース。
ムール貝の味はバジルが聞いてなかなか良かった。
ブイヤベースはスープの味はいいのだが、魚の方は何とかならぬ物か。要するにあれは煮魚である。肉に締まりがなく、おいしいソースで味付けしている訳でもないから、日本人から見ると、どうしても今一歩である。
ワインは胃を考えて少し控えめにした。
サユリは食が進まぬ風。あげくのはて、帰り道地下鉄を降りたとたん、すべて戻してしまった。本当に旅先の病気は難儀である。