新潮文庫
ある偽作家の生涯
日本画家大貫桂岳の伝記編纂の仕事中、私は桂岳の偽作を描いて暗い不幸な生涯を送った原芳泉という画家に興味を持った。その足跡を寄り道をしてたどってみた。
玉碗記
布施市の旧家から安閑天皇陵の出土品であるいわゆる玉碗と称するカットグラスの器物が発見された。日本書紀には安閑天皇の妃の歌が載っており興味をもっていた。ところがこの玉碗は白瑠璃碗と瓜二つであった。すると遠いペルシャで作られた二つのガラス碗が中国を経て日本に来たというのか。
澄賢房覚え書
私は高野山で教えている吉村という大学時代の友人を訪ねた。彼の見せてくれた文献の中に昔調べたが最後はわからなかった澄賢房の手記をみつけて驚いた。そもそも私が彼に興味を持ったのは、そのころ彼の手になる「般若理趣経俗詮」なる書物を見つけ、興味を持ったからである。
その手記とその後の調査をつき合わせて、彼の足跡をたどると、彼は南山の学徒であったが、20歳前後の時、酌婦あがりのおれんなる女性と関係し、山をさらねばならなくなった。その後おれんと分かれる、子に死なれる、放蕩三昧を尽くすなどして50年、差と美とに由れば身持ちの悪い破壊坊主であった。しかしその間に若い頃決心した般若理趣経の解説を怠らなかったらしい。
彼が最後に高野山を訪ねると、昔の学友宏栄がいた。七十歳の高僧となり、若い僧たちに世話される身、その表情は穏やかであり、静かであり、貧しさの微塵もない、不自由さを少しも感じさせない。般若理趣経のことを語るが「わたしも二十年ほど、理趣経の勉強をつづけてきましてな。」「仏の教えというのは、これはまたふかいものでな。その勉強はいつ終わりが来るというものではない。」などという。
澄賢は「あらゆる誘惑を遮断された高野の山で、一生不犯に生きた人間の解釈ではない解釈がある!」と自分の著作を取り出したかった。しかし彼は宏栄の顔に不思議な冷たさと、自分の言葉が相手を突き抜けて跡形もなく消えてしまうのを感じできなかった。彼は宏栄を恐れてないし、圧倒されもしないし、羨ましいとも思わなかった。なら、何だ!ただもうどうしても通ずることのできない壁が二人の間に置かれているように感じた。
澄賢の帰り仕度に、宏栄は「お帰りかな、まあ、いいぢゃあないか。」というがそれには別に引き止めるという風でもなく、かといってそっけない風でもなく何のこだわりも感じられなかった。辞去した澄賢は「すべては終わった。」と感じ、その帰り道、川にはまって亡くなってしまう。
漆胡樽
正倉院御物展でみかけたらくだに乗せる水がめとして造られた漆胡樽が気に入り、ルポライターの私はその道に詳しい戸田龍英なる老人を訪ねる。「漢の武帝の頃、西域の歩くにでは旱魃で水がなくなったため村全体で移動を開始するが、その青年は安全を神に祈るため、もとの部落に単身戻ったところを匈奴に見つけられ漆胡樽をうばわれてしまう。」そんな話に始まり、漆胡樽が日本に来るまでの数々のエピソードを老人は語るが・・・・。
信松尼記
武田信玄の末から二番目の娘松姫の物語を中心に、戦いのために男たちに利用された女たちを描いている。信玄が没する。松姫は北条から人質として送られてきた氏秀に思いを寄せていたが、上杉の養子となったのち、信玄のあとをついだ勝頼との争いに敗れ自刃してしまう。その後、織田奇妙丸と婚約するが、会うことはない。やがて織田は奇妙丸こと信忠を将として武田に攻め入ってきた。武田が滅亡する・・・・。
僧行賀の涙
僧行賀は第10回の遣唐使の一団に加わって、23歳のときに渡唐した。このとき、一行は五百名近く、遣唐使は藤原清河、過去に二回の経験をもつ吉備真備、帰国する中国の僧鑑真も参加している。半年かけて年の暮れに都長安にたどりつき、玄宗皇帝に謁見した。長安には第8回で渡唐し、滞在37年に及ぶ安倍仲麻呂がいた。26年後,第11回の遣唐使船に乗って、彼は大陸に残った清河の娘とともに帰国の途に着いたが、難破し、日本についたのは51歳のときであった。歓迎はされたものの、興福寺で試問をうけるが日本の言葉すら不自由になり、満足に答えられず非難をあびた。
021217