美徳のよろめき   三島 由紀夫


新潮文庫

倉越節子は非常に躾のきびしい、門地の高い家に育って、探求心や理論や洒脱な会話や文学とは無縁、ただ素直にきまじめに、官能の海にただようように漂うように宿命づけられていた。親の決めた男と結婚し、男の子を設けたが、3年目にもなると夫は仕事中心、夫婦のいとなみも間遠になった。そんなとき彼女は結婚前に一度だけ接吻したことのある土屋と親しくなった。
しかし土屋に愛を感じ始めたころ、偶然の夫の気まぐれから妊娠、「この一件は土屋さんにも良人にも内緒にしよう」と決心し、堕胎する一方で、土屋とは一緒に旅行に行くことにする。そして、関係、少しの間幸福を感じた。あいびきを重ね、ホテルの一室で裸で食事をしたりした。ところが今度は土屋との間の子供が出来た。土屋は責任を取る様子もなく、また堕胎することになる。
節子は友人興志子の口から土屋がある女優とダンスホールにいたなどの話を聞き、土屋に抗議してみたり、あるいは別れるそぶりを見せるがふんぎりがつかない。山奥に一人住まいしている松木という男に相談する。高遠な教訓を聞かされた後、こんどは明治の花柳界のでで政界の大立て者の未亡人を探し当てる。
「情に負けるということが、結局女の最後の武器、もっとも手強い武器になります。情に逆らってはいけません。ことさら理をたてようとしてはなりません。もう死ぬほかないと思うときに始めて女には本来の智恵が湧いてまいります。…・ただ申し上げたいことは最後まで世間を味方につけておおきなさいまし。一番恐れなければならないのは女達のひそひそ話です。…・奥様、悩みを隠したり、悩みに耐えたりというおつもりでなく、気軽に秘密を守るおつもりにおなりなさいまし。」
などと言われて節子は次第に強くなって行く。興志子の情人飯田が、興志子にふられたから元に戻すよう計らってくれ、などと脅しに来るが苦もなくはねつけてしまう。やがて三度目の堕胎、松木の訃報、里の父との会話を通し、次第に自分自身の思いを断ち切り、土屋と別れる決心を固めてゆく。
生まれも躾も良く、およそものの裏側を見ることをしない、天性幼児のような主人公の、本来であれば悪徳である姦通という行為を、きれいにロマンチックに描いていることが特色である。解説で、作者がこの作品を書くにあたって「肉体の悪魔」「ドルジェル伯の舞踏会」などを書いたレイモン・ラデイゲの影響を受けている、と知ってなるほどと思った。

・「…この世で一番強力なのは愛さない人間だね。…・精神を凌駕する事の出来るのは習慣という怪物だけなのだ。あなたも男も、この怪物の餌食なんだよ。…・ああ、倉越さん、人間の欲望などというものはケチなものだよ。あなたは本当のところ、もう欲望からは治ってしまっているはずだ。私は青春時代の一番はじめにそれから治って、後の一生はただ習慣から逃げて暮らした。そして人間のやっている偉業などというものに、みんなこの私と同じ、逃避の蔭のさしているのを知ってうんざりした。事業への逃避、政治への逃避、栄光への逃避、それが歴史を支えてきたのだ。…・・」(127p)

011130