仏教vs.倫理   末木文美士

ちくま新書

あとがきによれば著者は、古典文献にもとづく思想史の構築に長く専念してきた学者である。公共の倫理、他者とのつき合い、そし死者との親しみ・・・・この書のモチーフとなる思想は、自分自身と対話を続けながら、少しづつ形をなしてきたもの、という。
私が、この本を求める気になったのは「仏教には倫理がない。」とする考え方である。これはキリスト教には神に根拠を持つ「人間」の立場を超えた、より高次のところから発する宗教独自の倫理があるが、仏教には神にあたるものがなくかけていると言い換えられる。

仏教の倫理欠如思想の原点に著者は中世の本覚思想を取り上げる。
「無常のこの世界は無常のままで永遠の悟りを実現しており、改めて悟りを求める必要はない。衆生は衆生のままでよく、仏になる必要はない。地獄は地獄のまま、人間は人間のままでよいのである。」しかしこれではこの世界はすべてそのままでよく、何一つ改める必要がないのではないか。

倫理とは「人の間」のルールである。「人を殺してはいけない」というのも、このようなルールの一つと考えられるかもしれない。しかしそのルールが適用する場でのみ成り立つのであり、戦場においてそのルールは成り立たない。倫理は場や状況の変化に応じて変わってゆかざるを得ない。
宗教は基本的にいえば「人の間」のルールからの逸脱にかかわり、「他者」とかかわる。むしろ「逸脱」そのものである。その点で狂気、犯罪、生死、情念、衝動などと同等である。その結果、時に「人の間」の世界から指弾されるような領域に飛び込んでしまう。

原始仏教では個人単位が原則と考えられていた。ところが大乗仏教では他者の概念を組み込もうとした。その精神を体現するのが菩薩で、菩薩は自利と同時に利他の実現を目指している。人間は他者ナシでは生きてはいけないのだから組み込むのは当然だが、途端に問題がややこしくなった。
空や仏性を根本としながら他者救済を行おうとする過程で、倫理的な原則を曖昧化し、見失わせるものがでてきた。そのことが「人間」の領域にほころびを浮き立たせ、倫理から超・倫理へと飛躍しなければならぬ必然性を示すものとなった。

宗教はしばしば「人の間」のルール=倫理と対立したり妥協したりしてきた。
キリスト教はかって井上哲次郎等に日本の実情に合わないとされた。「第一に国家を主とせず、第二に忠孝を重んぜず、第三に重きを出世間において世間を軽んず。」
仏教の場合は世俗倫理と折り合いをつけながら、今日に至っている。戦争の時代には戦争協力、平和になれば平和主義、環境保護が叫ばれればエコロジーという具合に・・・。

こんな中で社会的な問題にコミットする仏教として社会参加仏教が出てきている。
最後に他者は、われわれが不可避的に出会うにもかかわらず、予測火可能で、「人の間」を逸脱する。そのよう他者の極限として死者がいる。宗教とは、このような「人の間」を越えたものと「人の間」の緊張関係において両者を結びつけるところに成り立つ。
死を自分の限界的な事態として捕らえる限り、議論は行き当たってそこから先は分からない。しかしわれわれはすでに死者とかかわりを持っていると考えれば、議論は不毛ではない。「死者の語りえない言葉に耳を傾ける」必要があり、「死者の力」を忘れるとき生者の傲慢が始まる。そんな意味で葬式仏教もそれなりの意味がある。

靖国は、全く普通の死者を祀っており葬式仏教の役割を果たしている。死者と対話し、その助けを借りて生者のエネルギーにしよう、という点では広島より優れている。

060314