武家と天皇  今谷明

並みの小説より余程面白い。
最強の武家政権=江戸幕府はなぜ天皇制を廃止しなかったか、この疑問に答えるために冒頭で、1629年の後水尾天皇の「俄かのご譲位事件」を取り上げる。新たに践祚したのは年齢わずか7歳の興子内親王(明正天皇)であった。1221年の承久の乱以後、幕府に無断で行った皇位継承は事実上無効である、との慣例を破ったものである。

平安中期まで名目上の主権者は、天皇一人であったが、1086年に始まる白河上皇の院政がきっかけとなり、天皇は飾り、実権は執政である「治夫の君」上皇が握るようになった。しかし1221年に後鳥羽上皇がおこした幕府討伐を目的とする「承久の乱」以降、上記が慣例をなった。さらに文永・弘安の役(モンゴル戦争)で、院権力が蒙古牒状を鎌倉に送ったことにより、天皇側は外交権を喪失した。
南北朝後半期、後光厳天皇即位以降、幕府の公家に対する力は優位はますます進行した。足利義満は、形式上も天皇を越えようと、次男義嗣を皇位につけようとさえしたが、義嗣急逝で頓挫した。このころ天皇の権威はどん底にあった。しかし1438年の永享の乱以降、私闘にさえ賊討伐に治罰の綸旨と錦の旗が使われるようになり、権威は復活の兆しをみせる。さらに官位の叙任権を取り返すなど天皇は一定の求心力を持ち始めた。

信長は、天皇の権威を軽視していたようだが、一向一揆・浅井・朝倉連合との和議、武田信玄対策などで利用した。しかし正親町天皇譲位などには失敗。
秀吉は、清洲会議で東国を徳川・北条にゆだねてしまった。徳川家康・織田信雄連合軍に小牧・長久手で戦い、事実上の敗戦をこうむった。この結果武力による東西両陣営の再統一は挫折した。ここに至って秀吉は、官位への執着を見せ始めた。公武融和を進め、その中で家康・信雄と和議を進める一方、自身は正二位内大臣となる。さらに強引に公家の争いに乗じ、今まで五摂家以外はいしたことのない関白の地位を得てしまう。そして天皇の名において平和令なる綸旨をふりまわし、北陸四国を平定し、島津を責め九州遠征を行う。聚楽第行幸、諸大名の官位昇進などを経て、全国統一を一応成し遂げた。まさに王政復古政治の復活であった。

家康は、朝廷の和解工作を蹴って関が原の戦いが行われたが、結果は豊臣譜代大名の加増という皮肉な結果に終らざるを得なかった。しかこれを機に秀頼を単なる60万石の地方大名に落とすと共に、武家関白を廃して公家関白に戻し、「学問と朝儀の公家」へ戻すことにした。官位についても、武家官位を朝官の「員外」とする、大名を国司にするなどの手を打つ一方、幕府の推挙を不可欠の条件とさせた。さらに官女密通事件などで勢力を増大させた。そして和解工作をまたも蹴って豊臣氏を滅亡に追いやる。
家康の死後、徳川家は、家康の神格化を計ろうとする。日光を造営し、各地に東照大権現を勧請し、徳川氏の王権神話を定着させようとする。さらに天皇家の宗教的権威剥奪を画策した。紫衣事件はその延長上にあるもので、沢庵和尚らが流罪となった。

これまで後水尾天皇は何度か譲位を希望したが事前折衝でいつも思いとどまっていた。しかし天皇の不満は頂点に達し、当初の「俄かのご譲位事件」に繋がった。
幕府側は対応に窮し、しばらくは返事をせぬ有様であった。しかし幕府に征夷大将軍などの権威を与えるものが朝廷である以上、むげにするわけに行かず、細川三斎などの仲介で結局は追認という形を取らざるを得なかった。公武融和体制が確立されたが、幕府の面目はつぶれた。
平和の到来と共に、出仕儀礼に、官位の即した礼服着用の強要など、礼式世界の重要性は増してゆく。天皇は、その体系の深奥の核であり「奥の院」に相当するものとなった。尊王主義的な考えの綱吉のもと、浅野長矩は松の廊下事件で「勅旨登城」の場をけがした、として即日切腹させられた。神の世界でも東照大権現の神威は武家の元ではいざ知らず一般には伊勢神宮の後塵を拝することとなった。

こういった流れが王政復古として明治維新を迎えることになった。この書はここまでで終っており、女性天皇のありかたなどをめぐってゆれている現在の天皇制度の将来についてはコメントしていない。その辺は読者の議論にまかせるというべきか。

060814