文章読本        中村 真一郎


新潮文庫

口語文の成立
 考えること、話すこと、書く事、という三つの仕事は繋がっています。しかし「話し言葉」と「書き言葉」には距離があり、単語さえ別のものになります。明治維新以後西欧文明の流入に伴い、文献の中の単語を一つ一つ置き換え、漢文読み下し文のような文章が作られるようになりました。一方で作家が中心となって「言文一致」スローガンをかかげ、口語文をつくろうという運動が盛んになりました。
 まず二葉亭四迷がツルゲーネフの翻訳で試みましたが、一方で「浮き雲」では江戸時代の戯作調に引っ張られ、踊るような調子のよさを重視しました。しかし田山花袋などの自然主義作家たちは口語文から踊るような調子を排除し、落ち着いた冷静な感情を表現する道具として発展させようとしました。ただ泉鏡花だけは逆方向に進み、優れた作品を残しました。
* 書く大部分の文章は、観念を論理的に配列するだけでなく、記憶や空想の情景の描写、またそこに喚起されるある雰囲気、気分の、言葉の調子を利用しての表現、などの混じりあったものということになります。論理的に再整理して文章にするわけですが、混沌のかなりの部分が切り捨てられてしまいます。(13P)
* 天才的な作家は、民衆の心の働かせ方の変化を、予感し、先取りした表現を発明します。(14P)
口語文の完成
 すると従来の文語文を口語文にいかに吸収させるかということが問題になりました。
 森鴎外は西洋の小説を文語体に訳すことから始め、創作にも適用させました。社会に通用するどんな単語をも口語文の中に取り入れることに成功したり、科学者の観察眼で文章を書き、考える文章と感じる文章の融合をはかったり、抽象名詞を主語にした文章を書いたり、話し言葉をそのまま文章にしたり、擬音語を用いたり、西洋の文体に学んだ口語体と漢文に学んだ文語体を統一した古典的口語体を発明したりしました。
 鴎外は書き言葉から口語文を作り上げたのに対し、漱石は、話し言葉から口語文を作り上げました。初期には写生文を愉しむグループに属していましたが、「猫」では東京方言と標準語の融合に成功し、「虞美人草」では泉鏡花の影響を受けて気取った文章を書き、やがて自分の思想と感情とを、冷静に見つめて、それを沈着に表現する方向に変わって行きました。自由に客観と主観を往来しうる、そして時には平凡に感じられるくらい平易な、と同時に癖のない、口語文を完成させました。
 この中にあって、幸田露伴は伝統的な表現方法から、西洋の方へ転化することなく、その伝統的な語り口から現代口語文を引き出すことに成功しました。初期のものは江戸末期的な言葉の洒落や、伝統的な美観への連想やが豊富すぎる欠点がありましたが、次第に日本的なニュアンスに富んだ口語文を作り上げました。
* 近代口語文の完成は、考える文章と感じる文章の統一であり、従ってその完成の有資格者は学者であると同時に作家であることが適当であった。(91p)
* 自然な無意識な私というものが、ただここにあるだけで、一度、他人と区別して自分を自覚するという傾向が、日本人には従来、乏しかったと言うことになります。(97p)
口語文の進展
 鴎外、漱石、露伴によって「ニュアンスの相違」をもった口語文が完成された後で、口語文はまた徐々に変化して行きました。
 自然主義初期の三尊として藤村、花袋とともに独歩があげらられます。藤村は、たとえば「夜明け前」純客観的な歴史的叙述と、個人のドラマをひとつの文体にまとめるために極度に抑制した文体を用いました。沈着冷静と言う感じを与えます。花袋は、事実だけを書こうとつとめ、描写の中に説明をはいりこませるような工夫をしました。また独歩は、目に見えるように正確であると同時に、一種の神秘性を供えた文体を発明しました。感じるための描写と言うより考えるための説明という形を取っています。
 武者小路実篤を中心とする白樺派は、書き言葉の中に話し言葉が混入するなど型にはまらない文体を作り出しました。そこでは主感の強烈な燃焼が感じられ、従来の感傷主義から解放された口語文が成立しました。有島武郎は、知的感覚的形成を西洋人として行ったため、西洋人が日本語で書いた文章と見まごうような文を書きました。しかしこれはほかの人たちに受け継がれませんでした。志賀直哉は、客観的な落ち着いた文章で、人間生活のあらゆる面を描き出すことに成功しました。
 荷風は、洋学と漢学とを両輪にして、文学の車を押しすすめました。鴎外を尊敬し、日記を文語体で書き続けた、といいます。ただ彼は鴎外のようにどう書いても小説になると言う風には楽に考えず、純粋に小説風の文体を作り出そうと勉めました。鴎外の作り出した口語文に東京方言の暖かい血を導入する事で、より柔軟性を持った口語文を作り上げました。また荷風に激賞されて文壇に躍り出た谷崎潤一郎は伝統的な日本文化の味を口語文に付け加えることに成功しました。
口語文の改革
 佐藤春夫は詩的散文を編み出し、知的冒険による口語文の改革を行おうとしました。北原白秋や木下杢太郎も同様です。萩原朔太郎は詩句を作ることに成功し、新しい境地を開拓しました。
ポール・モランの作品は日本の第一次大戦後の作家たちにおおきな影響を与えました。それは前代の客観的観察による描写と云うものとは違った、特殊に主観的な表現だったからです。場景を客観的に描写して行くと云うよりは、描写をしている作家の気分そのものをも、場景に解け合わせて表現させて行くような試みが見られるようになりました。
 戦後は一般の人々が文章による表現に飛びつき、読者の数が飛躍的に増大しました。文壇の中だけの文学的表現も一般大衆に読まれ、共感を求められるようになりました。そこでたとええば野間宏は客観的観察でなく、人物の内面に入って、人物の心理や感覚や憤りや不安や悔恨をその単純な行為の中に表現し、読者に衝撃を与えるような文を書きました。こうして散文の主観的開発はこの時代に至って、全くの自由さに到達した結果、読者自身の表現にも役立つようになってきました。
 一方で戦前の作家や読者が批判的であったのも当然で、逆の試みも行われ、徹底的に論理的な者を作り出しました。大岡昇平はその代表者です。三島由紀夫は、これから発展しより装飾的な文章を試みております。
こうした混沌のなかで書き言葉の影響と、話し言葉の影響を平然と取り入れた、より若い作家たちの時代がやってきました。庄司薫や井上ひさしの文章には考えること(思想)と、感じること(感情)の全体的な表現が見られます。
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