大連・空白の600日      富永 孝子


新評論

 かって大連は日本の植民地関東州の中心であり、エキゾチックで美しい町並みを人々は東洋のパリと呼んでいた。大連経済専門学校長徳重伍助の娘だった私は、大連芙蓉高等女学校2年13才、星が浦公園近くの豪奢な家に平和な日々を送っていた。
 昭和20年8月15日終戦を迎えた。それがすべてを変えた。
 敗戦と同時に私たちを守ってくれる関東軍は消え、国民党の青天白日旗がひるがえるが、それもつかの間、22日にはソ連軍が進駐してきた。大連は暴行、略奪の街と化す。やがて日本の行政府は崩壊し、日本人は棄民として苦しい時期を迎える。
 11月ソ連軍の略奪が進む中、中国国民党治安維持委員会に替って、中国共産党を核とした市政府が設立される。翌年には日本人左翼集団を中心に日本人労働組合が誕生。ソ連指導の下、20万同胞を社会主義体制下で統括すると言う「歴史の実験」に取り組む。徳重一家は不良資本家のごときレッテルを貼られ、たびたびの供出金に応じざるを得ない。
 しかも国共内戦で大連は陸の孤島と化し、市民は二つの中国の間で右往左往し、食糧危機と高騰する物価に悩むことになる。日本人は80%が失業状態になり、必死の生存作戦が始まる。加えて満州各地から集まった難民の群れ。矢折れ、刀尽きる寸前、引揚げが始まった。
 私たちは昭和22年2月遠州丸で帰国した。幸い、頼れる親類縁者がいてどうにか日本での生活を再出発させることができたが、苦しかった人も多かったようだ。昭和20年代後半早稲田大学で学んだが、大学は60年、70年安保闘争の火種となって学園紛争が勃発した。私は彼らが理想と掲げる社会体制は大連で経験済み、理論と実践の違いを嫌と言うほど知っていた。
 結局昭和6年生まれの私は、18年から22年までの青春時代の出発点を大連ですごしたことになった。ただ、なぜああなったのか、どうしてこういう結果に終わったのか、幼い私に分かるわけもなく、疑問と謎を残しただけだった。長じて私は何とかあの未知の部分と、記憶の空白を埋められないか、と考えた。
 昭和55年父の33回忌のおり、偶然父の日記の一部が残されていることを知った。それは私に決意を促した。私は当時の大人たちを次々に訪ね歩いた。そして「おとなたちは書けなかった、書くわけには行かぬ事情があった」ことを知った。
 「われわれは歴史の観察者である以前に、まず歴史的存在である。」ヴィルヘルム・デイルタイの言葉に勇気づけられ、私はできる限りの資料と証言で空白の1年半を埋め始めた。
 エピソードを積み重ねながら、状況を次第に読者に理解させる書き方を取っている。どの作品にも負けないくらい豊富に資料を集めたことが、この作品の強みとなっている。
R000229