早川書房 FAKE! 関口 英男訳
エルミアの一家はハンガリーのバラトン湖近くに広大な土地と葡萄畑を持つ地主だった。母はユダヤ人銀行家の出、父は外交官、エルミアは裕福な家庭の一人息子として育ったが16歳の時に両親が離婚した。ミュンヘンのアカデミーハイマン美術学校で鍛えられた後、パリに出て多くの芸術家と同様モンパルナスに落ち着き、レジエ、ヴラマンクなどと親交を結んだ。
第二次世界大戦まで仕送りがあり、彼は裕福だったが、戦争で事情が一変した。ドイツがオーストリアを併合した直後、故国に戻ったが、政治犯としてトランシルヴァニアの収容所に送り込まれた。さらにドイツの収容所に送られた。一家の財産はドイツ軍に没収された。1945年、39歳、再びパリにもどったが文無しだった。ふとした機会にピカソの素描をまねて描いたところ、40ポンドの高価な値で売れた。ところが後に彼はその絵が150ポンドで転売されたことを知る。
やがて相棒をみつけ大儲けする。戦争で痛めつけられたヨーロッパには飽きてリオデジャネイロに飛ぶ。社交界に迎えられる。1947年には今度はニューヨークに飛ぶ。もうこのころには「フランス絵画の偽作家としての生活を、再びやろうと決心したからには、もう全力を傾けてそれに当たった。
ロスアンゼルスに行く。ビザはなく、発覚をいつも恐れていたが、ド・ホーリイ伯爵、ヘルゾーグ男爵などアメリカ人の好みそうな匿名を次々にもちいてごまかした。ところがビヴァリー・ヒルズで事業をしているフランク・バールズに「あんたが贋作をやっていることは知っているよ。注意した方が身のためだよ。」との忠告を受ける。
ニューヨークに戻るとデッサンから油絵に移った。桁違いに高く売れるからである。モジリアニなどの作品を手がけ、ケント画廊、ピカソの専門家ローゼンバーグなど多くの画廊や有名人に売り込んだ。それから彼は全米各地を飛び歩く。
放浪には飽いていた。まともな自分の絵が描きたかった。
散々悩んだ末、再びロスアンゼルスに戻り、自分の絵に挑戦する。しかし徒労に終わり、再びもとの生活に…。やがて自家用車も備えマイアミビーチ。そしてレイナールとの出会い。しかし次第に贋作に気づきだすものが増えてくる。「マチスの署名にはeをいれなきゃならないとは思わないの。」
エルミアとレイナールにフェルナンが加わる。こうして彼らは3人で贋作販売の道を歩むが、エルミアは利用されるだけであった。一方でポントワーズのオークションで出した作品はマチスのマルケ夫人などから「主人の書いたものではない。」などと主張されエルミアは行き場がなくなる。そして最後にスペイン領のイビサ島に落ち着くのだが…・。
それにしてもうまいものだと感心。巻頭にエルミアの描いた贋作が数多く示されているが、それは私たちがどう見てもモジリアニである、マチスである、ドンゲンである、デユフイである…・。中には遺族が本物のお墨付きを与えた贋作まであるという。日本にも相当に流れ込んでいるらしい。
彼らも本当は名前だけで、実は他人が描いても描ける程度の絵しか描いていないのかも知れない。これからは美術館に行ったら、作者の事を忘れて、それが本当に心を打つものであるかどうかだけ、考えるべきだ、と感じた。
020216