岩波文庫
紀元前5世紀の終り近く、ソクラテスと弁論術の素晴らしさを唱えるカルリクレス、ポロス等と議論する、それをプラトンが伝えるという形をとる。
副題に「弁論術について」とある。ゴルギアスが弁論術の教師であることが確認した後、弁論術は何についての技術であるかが議論される。ついには弁論術は習慣やなれによって習得される「言論について」の技術にすぎない、ことが明らかになる。その対象となっているものが議論され、法廷で議論される行為の正、不正、あるいは国家社会全般に関するものとされる。最後にソクラテス自身が「政治術の一部門の影のようなもの」と断定し、議論が一段落する。
以後は道徳や政治に関する事柄、あるいは人生の生き方や幸福をめぐって展開する。
不正は行う方が悪いのか、それとも受ける方が悪いのか。ポロスたちは後者を支持するがソクラテスは例をあげて反論し、ソフィスト的考えを粉砕してゆく。この背景には当時「言論のみが裁判や政治を左右する」民主主義社会が確立されていた事が上げられる。ポロスをして言わしめれば一種の独裁者にするほどのものであった。
さらに快と善とは同じものか、という議論になる。カルリクレスは「力こそ正義である」こと、つまり弱肉強食、優勝劣敗の原則は人間社会において真実と主張し、ソクラテスの唱える正義や節制の徳について「奴隷の道徳」と軽蔑する。さらに哲学は、ある以上の年齢で続けるべきものではなく、ソクラテスは子どもの真似をして、片言を言ったり、遊戯をしていると非難する。背景には欲望の充足こそ幸福な生活が、当時の社会の一般風潮であった事があげられる。
しかしソクラテスはひるむことなく一つ一つ反論し、ついには黙らせてしまう。この辺が本書のクライマックスのように見え、プラトン自身の言わんとしたことだろうか。
さらに続けて、ソクラテスは「もし迎合としての弁論術を持ち合わせていないために死ぬのだとすれば、僕は動ずることなく死の運命に耐える。」(234p)と啖呵を切るが、自身の将来の運命をすら暗示しているようにさえ見える。
同時に彼は現実のアテナイの政治指導者たちのほとんどすべてを、彼らは国家の有能な給仕人であったかもしれないけれど、昔と比べて人々をよりよくしていないから無能であると痛罵している。「現代の人たちの中では,ぼくだけが、本当の政治の仕事を行っているのだと思っている。」、さらに「弁論術をきわめて政治活動をすべきか、私のように知恵を愛し求める哲学の中でいきるべきか」と問い、自己を正当化している。この辺、ソクラテスの考えか、プラトンの思いか?
最後に弁論家たちを諭すように「人間が死ぬ段になってその魂が裁判にかけられ、敬虔にすごしたものは「幸福者の島」に移り住み、不正、神々をないがしろにする生活を送った者は償いと裁きの牢獄「タルタロス(奈落)」と呼ばれるところにおくられる」との挿話でしめくくるが、後の「国家」などに見られる挿話に繋がるのかもしれない。
書物としてみれば、この書は登場人物がそれぞれに主張し、さらにソクラテス自身の考え方も述べられるなど、興味深いところを持っている。またこの書に見られる考え方の差は現代にも通じるところがあり興味深い。
051012