角川文庫
恵門潤一郎は52歳、働き盛りの造園設計課で、今日もエメラルド開発が赤城山麓のリゾート開発用地をヘリコプターで視察してきた。しかしふと次回の約束を忘れるなど自分の記憶が時として消滅することに気がついた。
親友の八木医師の診断を受け、アルツハイマー病で死んだ叔母の話を持ち出され不安になった。しつこく診断結果をせまったところ、やはり同じ病気の疑いがあり、「精神余命」があと1年であることを知らされてしまう。
この病気が、原因不明、現在の医療技術では治療不能の病であり、記憶の障害から始まって精神能力と人格が徐々に滅びて行くと知って暗然たる思いに捕らわれる。
「とにか今やりかけている仕事をきちんとやろう、引き継ぎ体制も整えておこう。」と思う一方自殺することを前提に遺書を書き、息子に託すなど生と死のあいだを心は揺れ動く。ふとしたことで八木病院に父親を伴ってやってきた武井桐乃に惹かれ、京都で過ごしたりする。
仕事はまだまだあった。しかし力を入れてきたリゾート開発計画はエメラルド開発の倒産によってとん挫した。病気も桐乃との仲も妻に知られるところとなり、次第に彼は追いつめられて行く。
これは推理小説ではない。生への執着と死への誘惑の間でゆれる男の物語である。それを丁寧な取材と抒情あふれる筆致で描いている。特にアルツハイマー病や痴呆に関する記述、病院での診察場面の描写など、リアリテイがある。
この作品の持つテーマは重く、また結論も出ていない。しかしそのような告知を受けた場合でも、気の持ちようでよりよい精神余命を全うできるのではないか、と語りかけているようにも思え、暗い気持ちにはならない。
・ 「SINGLE PHOTON EMISSION CT.と言ってね。ある薬剤を注射しながらCTを撮る。すると脳の血流の状態がよくわかるんです。」(65P)
・ 「喪失体験?」「健康を損ねたり、役職や会社での役割を失ったり、配偶者や友人と死別したり…言われてみれば確かに、失うものが多いようですね。…・」(148P)
・ 「…・現代生物学の主流である分子生物学的に言えば、まさにそういうことになってしまうんだよ。だってね、視覚にせよ、聴覚にせよ、肉体的にせよ、心理的にせよ、外界からのどんな刺激も、体内の入ればすべて分子の動きに転換される。それが脳に伝えられ、脳内の分子を動き回らせる。もし何らかのリアクションを起こすとしても、筋肉の動作なども又分子の流れの変化によって行われる。愛も攻撃も欲望も、何もかも脳を含めて体全体の分子の活動によって生み出されるわけだ。」(181P)
・ 人は遺伝子の乗り物(182P)
020513