新潮文庫
カバー見開きに、白髪の作者の写真の下に1885-1985とある。この作家は100歳まで生きたのだ。「夏目漱石に私淑し同郷の野上豊一郎を通じその感化をうける、‘06年明治女学校高等学校を卒業。豊一郎と結婚。’07年漱石の推薦で「ホトトギス」に「縁(えにし)」を発表。作家として出発した。‘64年「秀吉と利休」で女流文学賞を受けた。」
なんと、この作品は彼女が80歳のときに世に現れたのである。
千利休は茶道の大成者であり、今日の我々の日常生活に多くの影響を残している。しかし彼が信長、秀吉のもとで頭角を現し、最後には切腹という劇的な死をとげねばならなかった経過、原因については今なおはっきりしていない。そこにこの作品は一つの仮説をたて、物語とし興味深く読ませることに成功している。
仮説は、切腹の原因が、利休の口から不用意に漏れた「唐御陣が、明智討ちのようにいけばでしょうが」の一言を最大のものとする。それを、利休を好ましくないと思っていた石田光成に利用された、と説くのである。もちろん歴史的事実である、大徳寺山門に」利休の木像を飾ったこと、茶器などを販売斡旋し多くの利益をえていたことが加わっている。
不用意な発言が第三者を介して広がり、一人歩きして解釈され、利休非難への世論?が形成されてゆく過程が、実に丁寧に読者に納得させるように書かれているところが、作者の力量を改めて感じさせる。
また利休と秀吉との対峙では秀吉に怒りのスパイラルというものを感じた。自分の意見を聞いてもらえない、と日ごろから感じているものは他人を非難し始めると、自分の非難した罵詈雑言に酔う、気分が高揚して怒りをますます増大させてゆくことがある。こういうとき弁解めいた発言や反論は火に油を注ぐ結果となる。
さらに作者は、この利休の死の伏線としてだろうか、山上宗二の悲劇を描いている。秀吉の二度の勘気にふれ、所払いとなった利休の愛弟子は北条氏につかえるが、やがて豊臣氏の北条攻めが始まる。その囲みを突破して、宗二は利休を頼ってくる。利休も秀吉にとりなす。しかし利休が去り、宗二は一人で秀吉と対峙し許されたとき、三度目の仕官を過去の経験から拒絶し、それが秀吉の怒りを買い惨殺されてしまう。その光景が、追い詰められた利休の頭に浮かんだ、というのである。
人物像が非常によく描けている。秀吉は、天下を統一した、恐れるものなどないはずである、しかし利休は彼よりも10歳以上年上である、しかも茶の湯では師匠であり、自分は下になってしまう、そのもやもやが気に入らない。彼の体力、積極性、自己に対する自信、むらき等がよく捉えられている。
利休については、武芸はできぬものの、商売と茶の湯を通してこうあるべきだ、との強い信念を持っている。これに老いの一徹と人生に対するあきらめのようなものが漂う。堺に蟄居させられて、秀吉に謝りにいかないところがよくあらわしている。
脇役に紀三郎という、親の庇護を受けながら、親の影響を抜け出したい道楽息子を作り出したところも面白い。彼は利休の死に遭遇して初めて父の偉大さをしる。帰るところもゆくところもなくなり、もうボケかかった物売りの爺さんと掘り川沿いに紫野にむかうところでエンデイングになるが、彼と父との関係は現代でも十分通用する。
読み終えて考えてみると、安土・桃山政権は武家社会が血で血を洗いながら作り上げた政権である。茶道は気をぬくために必要であったろうが所詮それ以上のものではなく「ガイヤ」である。このことが結局は秀吉や光成と利休等茶人の意識のすれ違いになり、発展と同時に悲劇も生んだ、と解釈すべきとも考えられるように思う。
(021120)