本当はこわいシェイクスピア   本橋哲也

この本はちょっと読みにくい。読みにくいのは文章、論理展開もさることながら、この書が題材としている「テンペスト」「ヴェニスの商人」「オセロ」「アントニーとクレオパトラ」をよく読んでいることを前提としているからだ。
作者の考え方は、作者が呼ぶところの「ポストコロニアル」な時代環境の中で世界でシェイクスピアをもう一度見直す、という前提になっている。「ポストコロニアル」は「コロニアリズム以降」とか「植民地の独立以降」というころだが、いまだに終結しておらず、植民地主義とそれに対する闘争は情報や巨大資本の発達の中でむしろ激化している。そういう中での視点で見直す、というのである。
4つの作品は冒頭に5つの問が設定され、それを解くという形で議論が進められているが、その主なものについて、私なりに作者の考えをまとめてみる。

テンペストは、アロンゾー等のイタリア貴族の乗る船が嵐に会い、見知らぬ島に漂着する。島ではアロンゾーやナポリ公の陰謀でミラノを追われたプロスペローとその娘ミランダ、彼に支配されることになってしまったらしい不平の固まりである怪物キャリバン、同様だが魔法を駆使して船を難破させるなど従順に仕えるエアリアルがすんでいる。著者はこの島の特色を1492年にコロンブスのアメリカ大陸発見やヴァージニア殖民計画に端を発した英国の新大陸植民化計画を反映しており、作者がロンドンの大衆劇場という新奇で強力なメデイアを通じて、劇団員、観客と共に再検討したものだ、とする。

ヴェニスの商人について著者が大きく取り上げているのは当時の欧米人のユダヤ人感である。同時にこの作品では「テンペスト」と同様、家父長制化における女性の結婚が取り上げられている。一体欧米でユダヤ人が蔑視されるようになったのはなぜか、ヴェニスという都市国家でユダヤ人はどのような位置づけであったのか、に言及している。

オセロでは、当時ヨーロッパがオスマントルコの脅威にさらされていたことを踏まえ、ムーア人の傭兵将軍であるオセロ自身が興味深い。彼は人種差別の被害者でありながら、白人社会の成功者でもある。デイスデモーナは家父長制による結婚に反対しながら、軍人社会の階層制には無頓着である。イアーゴとエミリアの結婚については性関係の不満と社会的地位の食い違いが指摘される。このようにこの作品は黒と白、上と下、男と女といった種々の対立がこれ以上ないほど熾烈に描かれ、しかも解決を与えていない。

パスカルは「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら」というが、この作品の原点になっている「プルターク英雄伝」では彼女はそれほど美人ではなかった、それどころかアントニーが政略結婚させられたオクテーヴィアと比べても「美しさも若さも劣る」としているとか。その彼女がなぜアントニーのような優れた武将を篭絡する事ができたのか。その疑問を呈しながら、アントニーとクレオパトラではクレオパトラの肌の色が黒いことをことさらに強調しているように見える。ではシェイクスピアが見せたかったものはなんであったか。同時にこの作品のクレオパトラの子達(シーザーとの間にシーザリオン、アントニーとの間に二人)をどう扱っているかにも注目している。

シェイクスピア本人が聞けば「そこまで深読みするか。」と驚くかもしれない。問題提起らしきものをしてはいるがその解決策を示しているわけでもない。しかしシェイクスピア作品をこうした見方で捕らえ、我々の時代が抱える問題をもう一度考えてみようではないか、という提案を行っている点では非常に興味ある作品といえる。

050115