岩波文庫
福沢諭吉は、天保五年(1834年)豊前中津奥平藩福沢百助の子として生まれた。幼いときから才気煥発で負けん気が強かった。長崎に遊学し、蘭学医にオランダ語を学ぶなどした。やがて大阪に出て医師緒方洪庵の元で学ぶことになった。頭角を現し、塾長になった。緒方塾は皆貧乏で大層バンカラであったけれども、皆、これ以上出来ぬと言うくらい一生懸命、オランダ語の文献を写したり、素読するなど勉強をした。
安政五年(1858年、25歳)、江戸奥平の屋敷から呼ばれて江戸に出た。翌年は五国条約の出来た年で、横浜は正しく開けたばかり、行ってみて驚いた。横文字が全然読めない。それから英語を学ばなければならない、と決心し、いろいろ師を求めながら学んでいった。
安政六年冬、徳川政府はアメリカに軍艦を派遣する決意をした。咸臨丸で艦長は木村摂津守、指揮官は勝倫太郎、福沢も頼んで乗せてもらうことになった。日本人が蒸気船を始めて見てからわずか七年で、他人の手を借りずに出かけて行こうとした点は大いに誇るにたる。サンフランシスコにつき、熱狂的歓迎を受け、女尊男卑の風習に驚くなどしたが、無事終了し、ハワイ経由で万延元年(1860年)に帰った。帰って私は幕府の外国方(今の外務省)に雇われた。
英語研究の毎日だったが、文久元年(1861年)から二年にかけて、ヨーロッパに行った。正使は竹内下野守。ホテルの大きさに驚き、議会とは何かと聞いて失笑を買い、ロシアではとどまることを薦められるなどいろいろあった。開国しなければならぬと肌で感じ、日本に帰ると、何と攘夷論の真っ只中。前年に桜田門外の変が起り井伊掃部守が暗殺された!
次いで薩摩の侍が英国人リチャードソンを切った生麦事件が起きた。英国は鹿児島湾に入り込み、同調したフランスと法外な要求を行うなど一時は戦争になるかとさえ思われた。下関でも長州がアメリカ軍、フランス軍に向けて発砲した。武道一辺倒の世になったが、福沢は自分の刀剣を売り払った。
慶応三年(1867年、34歳)になって再びアメリカに行った。戻るといよいよ王政維新である。福沢は、旧来の藩に縛られたやりかたを嫌っていた。政治に関心を示さず、長州征伐も参加しなかったし、拝領の紋服もすぐに売ってしまった。開国主義だから攘夷などとんでもない。さりとて表面は開国主義を装うもののその実旧弊に染まり、改革などできぬ幕府にも愛想を尽かしていた。
鉄砲洲の塾が次第に繁盛し、場所を芝の新銭座に移した。塾は慶応委義塾となづけた。上野で戦争が起こったときも授業は平常通り行われた。ついで奥州戦争。日本国中で学んでいるのは慶応義塾のみといった案配だ。やがて塾生もふえたので、三田を借り受け、移住した。さらに新政府から三田の払い下げを受けた。そんな中で福沢は臆病で、常に暗殺を警戒していた。やがて時事新報社をおこした。
この後、自伝は少し様相を変え、福沢自身の日頃の考え方や世相感を述べている。金を借りるのを徹底的に嫌った、筋を通し、正義を愛した、商売をしようとは考えなかった、花柳界などは全く関心がなかった、家庭は妻をめとって九子をえたが、皆自由闊達に育てたせいか、順調に成長した、仕官して役人になろうとは考えなかった、健康にはこのように留意した等。
この作品は六十四歳の時に口述筆記させて完成させたものである。自分の弱みも披露し、のびやかに、時にはユーモアを交えて語っているところが素晴らしい。歴史のおおきな流れが書かれていることも特色、王政維新で江戸の町が騒然とする様子など他では見られない記述だ。最後の仕官しなかった、家庭教育はこういう風にした、健康にはこういう点を重視したあたりは今日でも参考になる意見と感じた。
010214