イワンのばか       トルストイ


岩波文庫 中村白葉訳

テレビである老哲学者の紹介番組をみた。彼は山の中で自炊し、生き物は肉すら食わぬ、性生活は脱しなければいけない、と主張する。そして「私の信条を一番良く表しているのはトルストイの「イワンのばか」だ。」と言っていた。全面的に共鳴するわけではないけれど、教えられるところがあると思う。
イワンのばかとふたりの兄弟
むかしある裕福な百姓に三人の息子があった。軍人のセミョーンと、ほてい腹のタラースンと、ばかのイワンとそれにマラーニャといううまれつきおしの娘がいた。悪魔は三人の仲を割こうと考えた。セミョーンには兵隊をどんどん作ってやった。彼はその兵隊を使って、いろんな国を征服したが、最後にインドで失敗、責任を追及されて、死刑になりそうなところを、あわててイワンのところに戻ってきた。タラースにはどんどん金をやって、商売を繁盛させたが、これももっと金持ちの商人にやられてしまった。ところがイワンは、そうは行かなかった。耕せないようにしても、天候不順にしてもばか力を発揮して克服してしまう。金貨や兵隊をやっても使い方を知らぬからおもちゃにするだけだ。とうとう運動に疲れて腹をすかした悪魔は、イワンの家に転がり込んで「どうか私どもを養ってください。」と言った。イワンは喜んで承知したが、この国では一つの習慣がある。「手にたこのない者は、人の残り物を食わなければいけない。」悪魔のきれいな手にはたこがなかった。
小さい悪魔がパンきれのつぐないをした話
小さい悪魔はある貧乏な百姓のパンを隠して怒らせようと思ったが失敗した。大悪魔から怒られて、小さい悪魔は百姓に取り入り、豊作にする方法を教えてやった。二年後米が沢山取れたところで酒を作る方法を教えてやった。今では百姓共は酒を食らって争っている。小さい悪魔は誉められた。
人にはどれほどの土地がいるか
百姓のパホームはいつも地面さえ自由になれば良いと考えた。それを知った悪魔は、派フォームに次第に広い土地を持たせ、欲望を肥大化させる。パホームは最後に遠いバシキールに行き、一日歩いて回れるだけの土地を買うことにしたが…。
鶏の卵ほどの穀物
畑で鶏の玉子ほどの穀物が見つかった。老人に聞いてみるとずっと昔はそんなものはいくらもあったという。今の穀物はどうしてこう小さいのだろう。
洗礼の子
旅人に洗礼名を受けて育った百姓の子は、その旅人を訪ねて旅に出る。三つの心理…人を救うには自らを清くする必要があること、自分の心にしっかりとつかむものがなければいけないこと、まず自ら燃える必要があることを説いた寓話。
他に、三人の隠者、悔い改むる罪人、作男エメリアンと空太鼓、三人の息子を含む。

いかにもロシア的な寓話集である。読みながら作者が理想とした人というのはどういう人か、と考える。キリスト教すなわち神様を深く信じている、土を愛し、人々のために幸福を作ってやりながら朴訥に生きる、自分の分を心得、欲をださず、温厚にいきる、と言うことであろうか。三人の息子の総括がよくそれを言い表しているように思う。
……・
彼は、父のようにくらすと言うことは、人々に善をなすという意味にほかならないことを覚った。
彼がこの考えを心にきめた時に、彼のところへ父が出て来て、言った…・「今こそわしらは改めていつしよに暮らしてゆくことができる、そして幸福になることができる。おまえはこれからわしの子供たちみんなのところへ行つて、『わしのように暮らせ』という言葉の意味と、わしを手本にして暮らしたものはじつさいに幸福になれるのだということとを、話しておやり」
三番目の息子はあらゆる同年者たちのところへ出むいて、聞いたことについて物語った。それ以来どこの子供も、自分の分け前を受ける場合に、たくさんもらつたことを喜ばないで、父が暮らしたようにくらして、幸福になることのできるのを喜ぶようになった。父はすなわち神、息子たちはすなわち人々、幸福はすなわちわれらの生活である。人々は、自分たちは神がなくても、ただ自分たちだけで生きてゆけるものと考えている。ある人々は、人生とは満足のたえざる連鎖であるように考えて、生を喜び、生を楽しんでいるけれども、ひとたぴ死の時に見舞われると、その幸福が、死の苦痛によつて終わるこの生命が、なんのために彼らに与えられたのか、たちまちその意味を見失ってしまうのである。
こうした人たちは、神を呪いなながら死んでゆき、神の存在を否定する。こうした人たちは、すなわち総領息子である。
他の人々は、自意識と白已完成のうちに人生の目的を見る。そして白分のために、新しい、よりよい生活を準備することに全カを捧げるのであるが、しかし彼らは、地上の生活を全うしようとしながら、それを失って、それから遠ざかってしまうのである。
最後に、第三の人々は…・・「わたしたちが神について知ることのすべては、神は人々のために幸福をつくってやりながら、なんじらも他人に対して同じことをせよと命じていられる、ということだ」といつている。「だからわれらは、神の手本にならい、自分に近い者のために善をなすことに、つとめなければならぬのである」
そして彼らかこの考えに到遠するやいなや、彼らのところへ神が降りて来て、こう言うのである…・「それそれ、それこそわしかおまえたちから求めるところだ、わしがやっているようにおまえたちもやってゆくがいい。すればおまえたちも、わしが暮らしているようにくらすことになるだろう」(203-204p)
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