自殺について    ショーペンハウエル

岩波文庫

ショーペハウエル(1788-1860)は1819年に「意思と表象としての世界」を表し、その根本思想を打ち立て、その後それは揺るぐ事がなかった。ここに治められた数編はその注釈、付録、補遺として、晩年に著された「パレルガ・ウント・パラリボーメナ」に納められているものである。主著を読んでいるわけではないが、それだけで完結しており論理的にも明確に見える。以下、ポイントと、皮肉を込めた私の感じたことを合わせて・・・・。


我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであるという教説によせて
時間という認識のために、人間は絶えず生まれて、やがて死んでゆく現象と捕らえる事ができる。そんな中で人は己を動物的なそういったものではなく何かがあると考えたい。その結果「世界はわが表象である。」という第一命題が得られ、「最初にあるのは我で、それから世界があるのだ。」認識する事ができる。
人間の生き死にと真実の本質は土台次元の違うもので、後者は死ぬことなどない、といっているようだが、単に現存在である己を慰めているだけの説のようにも見える。


現存在の虚無性に関する教説によせる補遺
虚無は時間と空間の中に固定された人が、時間と空間のうちに、満足を知ることのない願望のうちに、あるいは努力が耐えず障害に出会うということのうちに、発見するところのものである。


世界の苦悩に関する教説によせる補遺
人生はまず生活のために働かなければならない、というテーマが与えられ、人々は苦しむ。しかしこの問題が克服されると、獲得されたものが一つの重荷となってくる。そして退屈という第二の苦悩が我々に襲い掛かる。いまだかって、現在の中で、自分は本当に幸福だと感じた人は一人もいない。
上の二つの論文はそういう見方も出来るかもしれない。しかし苦悩したり、虚無に陥ったりしながら、浮かれ騒ぐのが人生、嘆いてみても始まらぬ、と信じるから・・・・。同じアホなら踊らにゃ、ソンソン・・・・。


自殺について
キリスト教が自殺を犯罪と唱えるのは実は坊主がつくりあげた仮説にすぎない。人には自殺する権利はなければならない。一般的に言って生命の恐怖が死の恐怖に立ち勝る状態になったとき、人は自分の生命に終止符をうつ。具体的には肉体の破壊であるが、肉体はいきんとする意思の現象にほかならず、そのために人はしり込みをするのである。
また最後に「自殺は現存在と人間の認識とが死によってどのような変容をとげるか求める実験である、しかしこの実験は手際が悪い。なぜというに,肝腎の回答を聞き取るべきはずの意識の同一性を、この実験は殺してしまうのだから」という皮相的見方で締めくくっている。それゆえであろうか、彼自身も自殺によって死にたどりつくことはなく、70年余りの人生をまっとうした?


生きんとする意思の肯定と否定に関する教説によせる補遺
生命は、外形が速やかに流転しようとも、あらゆるときを通じて生きんとする意思の肯定に基本を置いている。生殖行為は生きんとする意思が、たとえ悪魔の高笑いが聞こえてこようと、自己を肯定したことにほかならない。このように人生を苦痛と不幸に満たされた虚無的なものとしか見ない作者ではあるが、キリスト教的禁欲を否定し、人の欲望に基づいたセックスを肯定している点が興味深い。

050305