女優X・・伊沢蘭奢の生涯      夏樹 静子


文春文庫

伊沢蘭奢は松井須磨子が去った後、日本の新劇界にはなばなしくデビューし、そして38歳で忽然として逝った伝説的な大女優である。
彼女の出身は津和野、同郷の薬種問屋伊藤家に嫁ぎ、七つ年上の伊藤治輔とのあいだに佐喜雄を設け、東京に出るが、夫に内緒で見た「人形の家」に心を打たれた。「ああ、私も女優になりたい!」故郷に戻って夫と協議離婚、子も捨てて、再び上京、上山草人の「近代劇協会」に参加する。大正5年のことである。
8年、松井須磨子が恋人島村抱月の後をおって自殺し、上山草人夫妻が協会をたたんで渡米する。そのため、それまで世話になっていた内藤民治の勧めで、アメリカ帰りの畑中蓼坡の「新劇協会」に加わり、「芸術座」や「近代劇協会」が姿を消した後の空白の時期に翻訳劇、創作劇に活躍、代表的女優として数々の名舞台をのこした。
一方で大正11年春には松竹蒲田に入社し、芸名を旧姓三浦しげ子として活躍した。これは一方では津和野に残した一人息子佐喜雄に送る母親としてのサインだったようだ。やがて二人は対面し、文通が続く。
昭和3年、新劇協会は「マダムX」を上演した。
主人公江藤蘭子は、福田という前科数犯の男の情婦となって、二十年ぶりにシンガポールから日本に帰る。彼女はもともとは上流家庭に生まれ、裁判官堀輝雄に嫁ぐが、生活の寂しさに耐えかねて過ちを犯す。夫に許して貰えず、騙されて外国に売られ、各地を転々としたが、わが子に会いたい一心で戻ってきたのだ。
事情を知った福田は堀を強請って金を得ようとするが、蘭子はそれをやめさせようとして争い、ピストルで福田を射殺してしまう…。
時の検事総長が元夫の堀輝雄、弁護人が息子の堀麗吉、被告人の蘭子は二人に迷惑のかかることを恐れ、自分自身のことは何一つ語ろうとしない…。マダムXたる所以であるが、余りにも自身の運命ににていた。
……
再会した佐喜雄とひとときを過ごした後、死が突然に蘭奢を襲った。風呂帰りに脳出血…・民治が医者を呼んだときには手の施しようもなかった。
伝記作品であるが「母と子」に焦点を当てている。子供に対する母の愛を、人間愛の姿として克明に描いている。自分のこころざしに忠実にかつひたすらに生きようとする主人公に対する作者の思い入れもうれしい作品である。
020624